目撃者 



 更衣室から長身の男子生徒が出てくるのを見て、黄桜可憐は目を光らせた。

 ――来たわ、あたしの玉の輿☆

 可憐は廊下の影で、目当ての人物がやってくるのを、待っていた。
 本当は登校してくるときに、爽やかな朝の挨拶を交わしたいのだが、彼にはいつも一
人の女子生徒がくっついているので、中々近づきにくいのだった。
(ほんっと、白鹿野梨子には苛々させられるわよ)
 でも見てなさいよ。と、可憐は決意を固める。あんたの幼馴染はあたしが攫ってあげるわ。
 例の彼――菊正宗清四郎が、スタスタと近づいてくる。
(大病院の跡取り息子で、その上ルックスも上等……超優良物件だわ)

 おまけに頭も良くって、頼りになって、女にも男にも(!)優しいのよね〜〜♪

 と、ルンルンしつつも、可憐の頭を、いつもある考えが過ぎる。
 しかし、果たして、そんなに完璧な人間がいるものだろうか?……と。
 人間、何か一つくらいは欠点があるものである。だが、今のところ清四郎にはそういっ
た欠点が全くと言っていいほど見当たらない。これは、怪しくないか?何か重大な人間
的欠陥を彼は隠しているのでは……。
 そこまで考えて、可憐は頭をぶんぶんと振った。
(まさか!そんなことあるわけないわよ。あの優等生クンに限って)
 すっかりお宝に目が眩んでいるので、すぐに打ち消してしまう。

「菊正宗く〜ん(はぁと)」

 男のハートをゲットするために計算しつくされた仕草で、可憐は清四郎に向かって手
を振った。彼はにこやかな笑みを投げてくる。
「やあ、黄桜さん」
 一部の隙もない、この爽やかスマイル!コイツが悪人であるはずがないわ、と可憐は
確信する。
「体育、お疲れさま」
「いつも、ありがとう」
 可憐の渡したタオルを受け取りながら、さりげなくお礼を言うこの如才の無さ。そこらの
中学生とは一味違う。おどおどと顔を赤くしたり、照れ隠しに暴言吐いたりなんかしない。

 ――うふっ。やっぱり、あたしの玉の輿よ。

 目の前の男を輿扱い。そこに恋だの愛はない。さすが後に玉の輿可憐と呼ばれた女で
ある。
「ね、今日のお昼ご飯、屋上で一緒に食べない?」
 今まで幾人もの男を骨抜きにしてきた必殺の上目遣いで見つめたが、清四郎は顔色
一つ変えなかった。
「あー……ごめん。昼はちょっと用事があるから」
「何の用事なのぉ」
「ちょっと、ね……。せっかく誘ってもらったのに、悪いんだけど」
 優しげな眼差しで見つめられると、それ以上食い下がることができなくなる。この男の
目には妙な魔力があるのだった。
「そうなの、残念ね。でも、次は付き合ってちょうだいよね」
「そうだね。次は……」
 と、言ったところで、清四郎の目が細められた。まるで笑い出したいのを堪えているか
のように。
(な、なに?)
 あたし、何か可笑しいこと言ったァ?可憐は困惑したが、清四郎はすぐに真顔に戻った。
「それじゃあ、また」
「あ、うん。じゃあね」
 足早に去っていく彼の後姿を見て、「まるで、あたしから逃げていくみたい」と、可憐は
思った。

 その後も、そんな遣り取りが幾度か繰り返された。が、結局、清四郎とランチを一緒に
とるというささやかな野望は一度も実現されることがなかった。
 どんな手練手管を駆使して口説いても、のらりくらりと巧妙に断られてしまう。そう、そ
れは巧妙としか言いようがなかった。少しも嫌な感じを与えず、好印象だけを残すよう
な彼のやり方。


「もー、どうしてなのよぉ!なんで、なびかないの!?」
 二年生の終了式のあと、可憐は自室で思わず叫んだ。
「アイツ、ホモだったりして」
 振られ続けた悔し紛れに、そんなことを思ったりする。
「三年になったら……見てなさいよ。絶対に振り向かせて見せるわ」
 こうなったら、女の意地だ。たかが中学生一人落とせないなんて、生まれながらの愛
の狩人、黄桜可憐の名がすたる。 
 可憐は一人、拳をグッと握った。なんとも男らしい。



 三年の始業式当日、昇降口に貼り出されたクラスの名簿を見て、可憐は飛び上がら
んばかりに喜んだ。
 
 ――やったあ!玉の輿と一緒のクラス!
          ↑清四郎
 クラスが同じというだけで、もう幾つかのハードルは越えたようなものだ。
 うふふん、とほくそ笑んでいると、名簿の下の方に不吉な名前を見つけた。

 うげっ!!白鹿野梨子!!

 白鹿野梨子……可憐が一方的にライバル視している、学園の超アイドルである。
 獲物(清四郎)の幼馴染で、一部の生徒の間では付き合っているとも噂されていた。
まさに可憐にとっては憎んでも憎み足りない女なのだ。
(なんで、よりによって白鹿が一緒なわけぇ)
 おまけに、と可憐は再び名簿に目をやった。あたしの出席番号の後ろ、剣菱悠理だし。
 学園一の問題児で、学園一の美形。

 ――この学校には、バカでアホで間抜けで乱暴で、とんでもない野蛮人がいる。

 ここに入学したばかりのときに聞いた、いつかの清四郎の言葉を思い出す。あのとき
はいつも穏やかな彼が珍しく憮然とした顔をしていたっけ。
 あとで同級生から、白鹿、菊正宗コンビと剣菱悠理が幼稚舎時代に大喧嘩したことを
聞いて、なるほど、と合点がいったのだ。
(因縁の三人が揃ったわけか……やだあ、何か面倒なこと起きないでしょうね……)
 奇妙な予感が、した。


 数日後。果たして、その予感は当たった。実は可憐も予感が当たるのに、少し加担し
てしまったのだが……。
 
「それじゃあ、もう一人のクラス委員は、剣菱さんにお願いしましょう」
 
 と、教師が言うと、教室はシーンと静まり返ってしまった。クラスメイトが皆、嫌がってい
るのは丸分かり。
(うわ……嫌な雰囲気……)
 可憐が眉をひそめたとき、不意にパチパチパチと乾いた音がした。
 清四郎が拍手をしていた。
 ハッという空気が教室中に広がり、一瞬のうちに盛大な拍手が湧き起こった。
 可憐はポカンと口を開けた。
(す、すごいヤツ。普通じゃないわ、菊正宗って……)
 人の意識を瞬時に引き付けて、思うままに誘導する才能。途方も無いカリスマ性を見
せ付けられたような気がした。
 しかし……ちら、とその彼を盗み見た可憐は次の瞬間、固まった。
 クラスメイトたちが必死で拍手する中、清四郎がすでに拍手をやめていたから。
 すでに興味を失ったようで、頬杖なんかついて冷めた顔をしている。  
 立ったままの剣菱悠理は、そんな清四郎を責めるような目で睨んでいる。
 面目を失った白鹿野梨子は、白い顔を能面のように強張らせて、真っ直ぐ前を見据
えている。
(や、いやん……。な、なんかトライアングル……?)
 三人をこっそり見回しながら、可憐は頬を引き攣らせた。



「やい、菊正宗!!」
「なんですか、大声で」
「お前、ちゃんと仕事しろよなあ!」
「してますよ、僕……」
「どこがだ、どこが!プリント集めるのとか、アンケート取るのとか、あたしに押し付けて
ばっかじゃん!!」

 二人がクラス委員になって以来、よく見られるようになった光景。どうやら、清四郎は
ちょくちょく悠理をパシっているらしかった。
「いいじゃないですか。君がやったほうが、効率がいいんだから」
 清四郎は澄ました顔でトントンと教科書の端を揃えている。
「たまには、実力行使も必要ですからねえ」
「たまには、お前も、手を汚せってんだよ」
「君、そういうこと言うわけ……」
 言葉とは裏腹に、清四郎はニコニコと笑みを浮かべている。  
「この間奢った……照り焼きバーガー二十個」
「う」
「ナゲット三十個」
「ぐ」
「アップルパイ四十」
「待て!」
 悠理は、つらつらと上げていく清四郎の口にストップをかけるように両手を前に出した。
「……分かったよ。やればいいんだろ、やれば」
「分かってくれましたか」
 偉そうに言う清四郎の前で、悠理はむくれたように、ぷうっと膨れている。

(なんだ、あの二人結構仲が良いんじゃない)

 ずっと彼らの様子をこっそり伺っていた可憐は意外な思いがした。
 菊正宗と剣菱。犬猿の仲なのかと思っていたのだが、そうでもないようだ。
(……でも、あの女はずうっと機嫌悪いわよね)
 今度は教室の隅に座る野梨子の方を見やる。委員を取られたせいか、それとも幼馴
染を取られたせいなのか。どちらが原因かは分からなかったが、あの委員決めの日以
来、彼女は一度も笑顔を見せていなかった。それにしたって、美少女には変わりないと
ころが、また可憐の気に障る。
(いい気味よ……ちょっと可愛そうな気もするけどさ)
 それにしても、と、もう一度清四郎へ目を移す。
 案外冷たい男なのかもしれないと、可憐は思い始めていた。
 幼馴染が委員の座から降りなくてはならなくなったときも、全然かばおうともしなかった
し、その後、慰めの言葉をかける風でもなく。悠理とばかり仲良く(?)している。
(まさか、剣菱さんが新たなライバル……なんてね。まさかねえ……)
 可憐は悶々と考え込んでしまった。


 悠理がライバルになる可能性に思い当たってから、可憐の目は彼女を追いかけずに
はいられなくなってしまった。

 剣菱悠理……バカでアホで間抜けで乱暴な野蛮人。

 事実、その通りで、彼女はその単細胞ゆえにか毎日何がしかのトラブルを巻き起こす。
 この間は、靴の中に溶けたチョコレートが入っていたと、大騒ぎしていた。

「ギャーーーッ!!」
「な、なんなのよ」
 体育の時間、突如昇降口の方から聞こえてきた耳をつんざくような悲鳴に、可憐が走
っていくと、ロッカーの前で、悠理がスニーカーを片方掴み、地面に憎憎しげに叩き付
けていた。
「どうしたの、剣菱さん」
「あたしの靴の中に、チョコレートが入ってたんだよぉ〜!」
「チョコレート?」
「そう!しかもドロドロに溶けたの!!ちくしょう、誰だよ、こんなもん入れたヤツ!!」
 滅茶苦茶怒っている。当たり前だろう。
 悠理は茶色い染みがついた靴下を脱ぐと、水飲み場へ走っていった。

「なにかあったんですか?」
「あ、菊正宗君」

 気付くと、背後にジャージ姿の清四郎が立っていた。
「すごい叫び声がしてたけど」
「ああ、剣菱さんよ。彼女の靴の中に、チョコが入れられてたみたいで」
「ふうん?」
 その時、彼の目がキラリと微かに光った。……ような気がした。
「剣菱さん目当ての女の子がやったかな。あの人も昔からファンが多いから……」
「そうかもね。ちょっと早すぎるバレンタインみたいだけど」
「ふ……なるほど」
 小さく笑うと、清四郎はくるりと背を向けて、体育館の方へ足早に去っていった。
(なんか、意味深な笑い方だったわね……)
 少し気になったが、可憐もスニーカーに履き替えて、グラウンドへ出た。


 その後も、悠理の弁当の中身がざる蕎麦に変わっていたり、廊下を歩いている彼女
の頭上に黒板消しが落ちてきたりと、不可思議な出来事が幾度かありつつ、悠理はま
たトラブルを起した。つい先日のプールの授業。
 可憐は生理中のため、見学をしていた。そして、清四郎も。もちろん彼は風邪のため
である。
 男子と女子はプールの両サイドに別れて、それぞれ授業を受ける。
 見学者はそのちょうど中間に当たる、飛び込み台の前で、三々五々ぼんやりとしていた。
「風邪、ひいたの?」
 手すりに腰掛けていた清四郎の隣に同じように腰を下ろすと、彼は軽く身じろぎした。
「ああ、うん」
「寝不足でかしら。菊正宗君、すごい勉強してそうだもんね」
「いや、ただの寝冷えだ」
 清四郎は相変わらずすげない。いや、同じクラスになってから以前よりも、可憐に対
して冷淡になったような気がする。
(ちぇっ、上手くいかないわね……)
 胸の内で密かに舌打ちしたとき、悠理が二人の目の前をバタバタと走っていった。
「こら、剣菱!プールサイドを走るな!!」
 今日も今日とて、教師に怒られている。
 可憐はせせら笑ってみた。
「剣菱さんって、まるで子供ね」
「実際、子供なんだよ」
 存外、真剣な声音で清四郎は言った。
「だから仕方ない」
「昔っから、ああなの?彼女」
「昔は……僕より大人っぽかったけどね。と言っても、幼稚舎の頃の話だけど」
「随分と前の話ね」
「僕はアイツに、苛められまくった」
「知ってる」
 可憐は曖昧に頷いた。聞いたことがある。幼稚舎から聖プレジデントに通学している
生徒たちの間では語り草になっている話。清四郎と悠理のいざこざの数々。
「今となっては、良い思い出ですが」
(嘘ばっかり)
 可憐は口を曲げた。菊正宗君あんた、得意の笑顔が全然作れてないわよ。
 やたらと生真面目な顔をして、清四郎はじっと水着姿の悠理を見つめている。
「ちょっと、そんなにジロジロ水着の女の子を見るもんじゃないわよ」
 見かねて注意したが、清四郎は全く動じない。
「女の子?僕は一匹の野生猿を観察しているだけです」
「ひ、ひど」
「ひどくはないな、事実だ。……剣菱!」
 清四郎は右手を上げると、プールサイドの悠理に向かって何かを投げ付けた。彼女
は上手くそれをキャッチして、「バカヤロウ!」と喚いている。
「今、なに投げたの」
「エサ」
 短く言って、清四郎は可憐の目の前に包装紙で包まれた飴を差し出した。
「食べます?」
「あ、あたしエサは食べない……」
「中々、気の利いた返し方で」
「……」
 コイツはあたしを褒めてるんだか、馬鹿にしてるのか。可憐は何とも言えず、黙ってし
まった。
 陽光がキラキラと零れている水面が眩しい。あたしも泳ぎたいなあ、と可憐は思った。
 事件が起きたのは、その直後だった。
「悠理」
 という、妙にはっきりとした声が隣から聞こえて顔を上げると、清四郎がプールに飛び
込む姿が見えた。
「え、どうしたの!?」
 何が起きたのか分からず困惑する可憐と同じように、教師もプールに入っていた生徒
もみんな呆気に取られて、シャツを着たままの清四郎が水の底へ沈んでいくのを見て
いた。
 しばしの間のあと、ぷは、と彼が水から顔を出した。一人の少女を抱えて。
「あっ、剣菱!ど、どうしたんだ!!」
 我に返った教師たちが駆け寄り、清四郎と悠理の手を掴んで引き上げた。
 ずぶ濡れの二人はよろよろとプールサイドに跪き、はあはあと荒い息を吐いている。と、
清四郎の手が悠理の頬を思いっきり引っ叩いた。

「バカヤロー!!ちゃんと準備体操しないから、足攣ったりすんだよ!!」

 叩かれた悠理は、一瞬泣きそうな顔をした後、俯いた。髪の先からぽたぽたと雫が落
ちる。
「この間抜けめ……」
 清四郎は血の気を失った白い顔を険しくさせたまま、しばらくぜーぜーと肩を上下さ
せていたが、やがて、ごほごほと咳き込みだした。
 教師がタオルを持ってきて、彼の肩にかけた。
「よくやった。取り合えず、保健室で休んでなさい」
 口を手で押さえたまま、清四郎は力なく頷いた。
 
 翌日、清四郎は案の定というか、やはり欠席だった。昨日の騒動のせいで、もともとひ
いていた夏風邪が悪化したらしい。
 いつも落ち着きなく動き回っている悠理もしおらしく元気が無かった。自分の所為だと
気にしているのかもしれなかった。

(なんか、変な関係よねぇ)

 昨日から、ずっと可憐は考えていた。悠理と清四郎のことである。
 最初は仲が悪いのかな、と思っていた。その後、やっぱり仲が良いんだ、と考え直し
たものの、昨日のプールの授業中の清四郎の横顔からは、悠理への蔑みや侮り憤りと
いった感情しか感じられなかった。「結局、菊正宗君が一方的に剣菱さんを嫌ってるの
か」と思いかけたとき、清四郎のあの行動。訳が分からない。
 まあ、人命救助の際に、好悪の感情はあまり関係ないのかもしれないが……。
 やはり腑に落ちないものが残る。
 今や、可憐の興味のベクトルは清四郎そのものよりも、悠理との関係性に移りかけて
いた。




 


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