愛欲



 見上げる真っ青な空を、白い雲が一つ二つ、ゆっくりと流れていく。
「天使も遠慮しそうな晴天ね」
「なんだよ、その詩的な表現。似合わねぇな」
「どういう意味よ」
 傍らに寝そべるティトレイの額を、ヒルダは小さく小突いた。
 彼らが休憩の場所に選んだ川縁の斜面は、緑の芝に覆われていて、寝転がるには
至極、具合が良かった。
 膝を抱えて座るヒルダの目の先には、川で水遊びをしているマオとアニーの姿がある。
二人は、川原で休むユージーンを巻き込もうと、何やら画策しているようだ。ヴェイグと
クレアの姿は見当たらないが、おそらくどこかで穏やかな一時を過ごしているのだろう。
 きらきらと光る水面が眩しく、ヒルダは目を細めた。
「平和すぎるくらい平和な光景だわ」
「だったら、もう少し嬉しそうな顔すればいいのに」
 ティトレイは横になったまま、ヒルダの髪を指に絡めた。
「ヒルダは、クールすぎるんだよな……」
「痛いわね。髪引っ張るの、やめてよ」
「またまたぁ。おれ、そんな引っ張ってないぜ」
「でも、痛いの。……そうね、こんな感じ」
 と、ヒルダはティトレイの頭頂部の髪を一本、ぷつと抜いた。
「い゛っ!!」
「痛いでしょ?だから、やめてね」
「抜いたら痛いのは当たり前だろーが」
 拗ねたように言うティトレイは、なおも髪を離そうとしない。業を煮やしたヒルダは、その
指を解こうと手を伸ばすが、すかさず捕まえられ、そのまま芝生に引き倒された。
 背中に柔らかな芝が当たり、目の前には高い青空が広がる。
「なにするのよ」
「成り行きでこうなった」
 天に顔を向けたまま抗議するヒルダに、同じようにこちらを見ないままで、隣のティトレ
イが答える。
「でも、気持ちいいだろ?」
「……そうね。子供の頃に戻ったみたい……」
 彼女は目を瞑る。草の匂いと暖かな陽光が体を包み込む感触は、ヒルダにとって懐か
しかった。悲しく苦しいことばかりが思い出される幼時だが、こんな空気を吸ったこともあ
ったのだ。
 少々感傷的になるヒルダだったが、ふと体に妙な感触を覚え、目を開けた。
「……どこに手を置いてるのよ、あんたは」 
 ティトレイが右胸に触れていた。実にさりげなく。
「いや、ヒルダの心臓の音が聞きたくなって」  
「生憎、私の心臓は左なの」
 やんわりと訂正して、ヒルダはティトレイの手をどかした。
「こんなところで、何考えてるんだか」
「だって、触りたかったんだから仕方ないだろ」
「子供みたいなこと言わないでよ」
 口を尖らせるティトレイに背を向けるように、ヒルダは体を横にした。今更、心臓の鼓動
が激しくなってくる。
「怒った?」
 機嫌を窺うティトレイの指がうなじに触れると、ぴくりとヒルダの体は勝手に反応した。
声を出したら、彼を喜ばせるだけだと分かっているので、彼女は口を引き結ぶ。 
「何とか言えよ」
 ティトレイは半身を起こし、ヒルダの肩に手を掛け彼女を仰向けにした。上から覗き込
むようにして覆い被さり、首筋に唇を寄せ、その線をなぞる。
「や、やだ!」
 思わず抗議の声がヒルダの口をついたが、彼はまったく構わぬ様子で、首への愛撫を
やめようとしない。
「やめてよ、こんなとこで……っ」
「誰も見てないって」
「ま、マオは?アニーは!?」
「……いねえよ」
「ユージーンは……!」
「……」
 ヒルダが、しっちゃかめっちゃかに足をばたつかせると、観念したのか、ティトレイは彼
女を拘束することをやめた。すかさず、ヒルダは体を起す。しかし、それだけでは安心で
きず、その場から少し離れたところまでいざった。
 そんな彼女を、ティトレイは恨みがましい目で見遣った。 
「そ、そこまで嫌がらなくても……。おれ、傷ついちゃう」
「勝手に傷つけば!?」
 ヒルダは自分で自分の体を抱くように、腕を組んだ。
「信じられない、もう」
「悪かったって」
 ティトレイの謝罪の言葉を、納得いかない気持ちで聞きながら、ヒルダは川に目をやっ
たが、本当にマオたちはいなかった。しかし、だからといって、先ほどのようなことを許す
ことは、彼女にはできない。
 そうよ、ア○カンなんて絶対ダメだわ!ティトレイにそこまでする気があったかどうかは
怪しいが、そう決意を固めるヒルダの横で、彼は項垂れている。  
「……はあ」
「ため息なんかつかないでよ」
「だってさ……」
「なによ」
「もう随分ご無沙汰だから」
 彼の言葉の意味を理解したヒルダは、顔を赤らめた。
「そういう変なこと言うのやめなさいよね!」
「別に変なことじゃねえだろ!?」
 ティトレイが喚く。
「なんだよ、じゃあおまえは、おれとするとき、いつも『あー変なことしてるな』って思って
るのか!!」
「こんな真昼間に言う事じゃないって言ってるのよ!!」
「おれだって、こんなこと言いたくて言ってるわけじゃねえ!」    
「じゃあなによ、そんなご大層なわけが、あるっていうの!?」
「たまってるんだよ!!」

 し〜ん。

 と、一瞬、その場に沈黙が流れたが、やがてティトレイは自棄でも起したように、ぞん
ざいな仕草で立ち上がった。
「どこへ行くのよ」
「うるさいな、どこでもいいだろ」
「休憩が終わるまでには、戻ってくるのよ」
「……姉貴みたいなこと言うな!」
 ふんっ!と子供めいた仕草で顔を背けると、彼はどこかへ行ってしまった。
 ヒルダの肩から力が抜ける。深く息を吐きながら、再び草の上へ体を倒した。
「なによ……下品なヤツ」
 あの男が変なことを言うから、太陽の眩しさも、柔らかな草の感触も何だか急に白々し
いものに思えてきてしまう。

(……バカ!)

 目を瞑ると、肌に刻まれた感覚が甦ってきそうになるので、彼女は目を開けたままで、
空を見つめ続けた。  
 


 その夜の宿屋。湯を使い終わったヒルダはロビーを覗いたが、ティトレイの姿が見当た
らないことに気が付いた。先ほどまでは、マオやヴェイグたちと喋っていたのだが。
 ヒルダは、ソファーに沈んで眠そうにしているマオに尋ねた。
「ねえ、ティトレイはどこへ行ったの?」
「ん〜?わかんない……」
 目をぐしぐしと擦っているマオは当てになりそうもないので、ヒルダは、彼の向いに座る
ヴェイグに目を向けた。 
「あんたは知らない?」
 彼は少し考えるように目を伏せた。
「ちょっと外に出てくるとか言っていたが……」
「こんな夜中に?」
 ヒルダは眉をひそめた。ふと疑念が心の中に渦巻く。ヴェイグは、そんな彼女の心中
を察知したのか、していないのか、続けて言った。
「どこへ行ったのかは分からないぞ」
「ふーん」
「探しに行くのか?」
 と、ヴェイグに聞かれて、ヒルダは「む」と言葉に詰まってしまった。
 己の恋路を周囲に知られていると、面倒なことも多々ある。
「……行かないわよ。湯冷めしちゃうし」
「行った方がいいんじゃないか」
「どうして」
「いや、別に……」
 どこか決まり悪そうに目を逸らして、ヴェイグは俯いてしまった。彼の反応に、ヒルダは
自然と苦い顔になった。
 本当は自分の気持ちなんて、もう固まっているのだ。

 
 

 


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