一学期二日目に



 あの二人と同じクラスになってしまった――。

 始業式早々、悠理の心は雲がかかったように晴れなかった。
 何故かというと、この学園内で最も苦手とする人物と一年間同じ教室で過ごさなくて
はならなくなってしまったからだ。
 それは、白鹿野梨子と菊正宗清四郎。
 頭脳明晰、容姿端麗という言葉は彼らのためにある。あまりに非の打ち所のない、パ
ーフェクトな二人。
 悠理と彼らの間に横たわる溝は深い。特に、白鹿野梨子とは。
 幼稚舎の入園式でのちょっとしたいざこざ以来、彼女との仲は最悪。こっちが睨めば、
無視される。何かに失敗すれば、氷のような冷笑が投げられる。

(でーっきらい!あんな女!!)

 悠理はべーっ、と内心舌を出す。なんだよ、友達一人いないくせにサ。
 いっつも、あの優等生ぼっちゃんと一緒に登下校で。彼氏がいるやつは、いいよな。

 だけど、知らずため息が出る。こんな風に誰かの悪口を思っている自分は大嫌いだ。
でも、どうしようもない感情が先走ってしまう。
 違うクラスだったら、こんなに考えることもない。ああ、なのに。
 これからずっと毎日、あいつらと顔を合わせなけりゃいけないなんて……勘弁。



 翌朝は雨だった。
 昇降口まで続く石畳に、散った桜が張り付いているのを見て、悠理の気分は益々優れ
なくなる。

(やだ……もう、学校行きたくない……)

 おろしたてのカラフルな黄色い傘も、自分を明るくさせることができない。この気持ち
一体なんなんだ。
「……くそ」
 ロッカーの前で、腹立ち紛れに閉じた傘をブンブンと振り回すと、「わっ」という声が背
後でした。
 
 やべ。後ろに人がいたんだ。

「こんなところで、そんな大振りしないでほしいね」
 ちょっとムッとしたような声に、悠理は慌てて振り返った。
「ごめん、水かかっちゃった?……げッ!!」
 品のない声を上げたのは、そこに予想もしない人物がいたからだ。
「き、きくきく」
「菊正宗」
 呆れたような視線を投げかけると、菊正宗清四郎はひょいと悠理の目の前に右手を
差し出した。
「……なんだよ」
「ハンカチくらい出しなよ。顔に水が飛んだんだから」

(キーッ!なにコイツぅ〜〜!!)

 その尊大な態度に、ふがーっ、と悠理はムカつきまくったが、相手の言うことも、もっと
もだったので、仕方なく制服のポケットを探った……が、
「ない!……あれっ?ない!」
「なーに、君ハンカチも持ってないわけ?」
 清四郎の明らかに馬鹿にしている口調に、悠理は頭に血が上るのを感じた。
「ハンカチくらい持っとるわい!ポケットに入ってなかっただけだっつーの!!」
「ふうん」
「あっ、信用してないな、お前!?」
「してますよ」
「してない、ぜーったいしてない!!」
「してるって言ってるでしょ。しつこい人だなあ」  
 軽く肩を竦めて、清四郎は悠理の鞄を指さした。
「それ。そこの脇から見えてるの、ハンカチじゃないですか」
「うっ」
 悠理は恥ずかしくなった。どーして、こいつに言い当てられなきゃいけないんだ?
「ば、バカ!人の鞄じろじろ見てんじゃねーよ」
「じろじろ見てない。ちらっと見えたんです」 
「うーっ」
 言い返せない……どころか、頭がガンガンしてきて、異常に頬が熱くなってきた。
 清四郎はきょとんとしている。
「ねえ、何か顔が赤いけど。熱でもあるんじゃないの」
「ち、違う!もう、いーから!使えよ、さっさと!!」
 悠理は母親が選んだレースのハンカチを清四郎に押し付けた。
「剣菱悠理様のハンカチだぞ。有難く使えよな」
「……」
「なに、じーっと見てんだよ」
 さっさと使えって!と、悠理が急かすと、清四郎はぼそりと呟いた。 
「これ、君のファンに売ったら高いだろうな」 
「……バカなこと言ってんな!使わないんなら、返せ!」
「返す」
 あっさりと清四郎はハンカチを悠理につき返した。
 悠理は何だか拍子抜けがした。
「なんだよ……そんなら、最初から貸せなんて言わないでよ」
「ごめんね」
 男にしては優しい響きの言葉を、彼は平気で使った。
「あんまり綺麗だから、僕の汚い顔を拭かせるのは忍びなくて」 
「……あっそ」

(全然、汚くなんかないじゃん)

 そう思ったけど、もちろん言葉には出せなかった。
 何だか変な気持ちで悠理がポケットにハンカチをしまっている間に、清四郎はさっさと
上履きに履き替えている。
 一段上がったところから、子供にするみたいにわざとらしーく、手を振った。
「それじゃあ、剣菱さん。二日目から遅刻しないようにね」
「あたしが遅刻なら、お前もそうだろが」
「ま、そうだけど」
 しれっと言うと、清四郎は教室とは逆の方向へ歩いていった。

(あたし……もしかして、からかわれた?)

 悠理は遠ざかる彼の後姿を見ながら、ようやく気づいたのだった。



 あれが、剣菱悠理……。

 隣家の野梨子が風邪で休むことを伝えるために、清四郎は職員室へ向かっていた。
 随分、昔と印象が変わったな、と思う。悠理のことだ。
 初めて苛められたのが、幼稚舎の入園式。あの頃は、子供の割りに冷めた目をして
いて、えらく大人びて見えたが、先程の彼女はまるでガキっぽく見えた。
 自分が成長したのか、はたまたアイツが退化したのか。
 どちらにしろ、中々、からかい甲斐のありそうなヤツでないかい?

(昔、散々いたぶられたからな……仕返ししてやる)

 幼稚舎から小学部にかけて、悠理には何度も酷い目に合わされている。背の高さが
ずっと同じくらいだったせいで、色々な場面で隣合わせになることが多かったせいだ。
 靴の中にトカゲを入れられたり、貸してくれた望遠鏡に黒く墨が塗ってあったり、ドブ
川に突き落とされたり……あげていけば枚挙にいとまがない。
 それらの中で、今でもはっきり覚えている苦い思い出と言えば、小学一年のときの遠
足である。

 ――未だに納得がいかない。

 学校から歩いて三十分程離れた公園が、遠足の目的地だった。

『じゃあ、隣の子と手を繋いでね。仲良く歩くのよ』

 教師のその言葉を聞いたとたん、清四郎は青褪めた。なぜなら自分の隣は悠理だっ
たからである。
『あの……悠理ちゃん』
『なんだよ』
『手、繋がなくても……いいよね?』
『はあ?』
 ぎろり、と悠理の鋭い目に睨まれて、幼き清四郎クンは怯んだ。
『だ、だからー……』
『せんせー!清四郎が手繋ぎたくないってー!!』
 大声で喚く悠理に、担任の教師が飛んできた。
『まあ、清四郎君、どうしてなの?』
『どうして、って……』
 清四郎は言いよどんだ。子供とは言え、やはり男子としてのプライドはある。悠理に何
をされるか分からないから接触したくない、とは、ちょっと言いたくない。
 もごもごと口の中で呟いていると、教師は何を勘違いしたのか、うふふ、と意味深な笑
みを浮かべた。
『もしかして、清四郎君、照れてるのかしら?』

 なにぃーーー!?

 あんまり自分の思いとはかけ離れた教師の言葉に、清四郎は絶句した。
『そうよね。先生も小さいころは男の子と手を繋ぐの、恥ずかしかったわ』
『ち、ちが』
『でも、清四郎君、本当は悠理ちゃんと仲良くしたいのよね』
『なっ……』
 仲良くなんかしたくなーい!そう叫びたかったのだが、根は優しい清四郎少年は、悠
理の気持ちを慮って、またまた途中で言うのを止めた。……それが良くなかった。

『わあっ、清四郎って、悠理のことが好きだったんだー!』

 誰じゃい!!
 キッと顔を上げると、クラスの連中がいつの間にか自分たちの周りに群がっていた。
『うわ!』
『清四郎、告白しろよー』
 突如として沸き起こる『こーくはく!こーくはく!』コールの嵐。

 な、なんでこうなるわけ……。

 混乱している清四郎の横で、今まで黙っていた悠理の顔が見る見るうちに真っ赤に
なっていった。

 うわぁ、泣きそう。

 心底うんざりしながら、そう思ったとき、目にも留まらぬ速さで、何かが頬に当たった。

『せーしろーのばかぁ!!』

 平手打ちされたのだ。人生初の女からのビンタであった。
『痛い……』
 頬を押さえながら、清四郎は涙が出てきそうになった。ことの、あまりの理不尽さに。
『ふーられた、ふーられた!!』
『あらあら、みんな静かにしなさい!悠理ちゃん、ダメでしょ叩いたりしちゃ。清四郎君
も泣かないのよ、男の子なんだから』
『……はい』

 ――もう、先生なんて……大人なんて、女なんて絶対信用しない。

 常人より一回転半ほど捻くれている今日の清四郎があるのは、この時の出来事のせ
いと言ってもよかった。
 それからというもの、清四郎と悠理は殆ど口を利かなくなり、今に至るというわけである。
 長い年月を経て、随分と自分が優位に立ったらしいことを、清四郎は先程の会話で
確信していた。積年の恨みを晴らすのは、今だ!

(野梨子ほどではないが、僕だって、少しは思うところがありますよ……) 
                              ↑なんかコワイ。 
 ニヤリと物騒な笑みを浮かべる清四郎だったが、一つ予想外のことがあった。それは、

「……案外、可愛いかもしれないな」

 ハンカチを探している時の焦っている表情。それを返したときの、間の抜けた顔。
 ……ちょっと好みだ。目の前に人参でもぶらさげれば、どこまででも走って行きそうな
ところが。
「なあんてね」
 清四郎はフンと鼻で笑った。あんな野生児、誰が好きになんかなるかい。


 ――しかし、彼は甘かった。
   
 この後、その野生児に人生ごと翻弄される羽目になろうとは、さしもの清四郎も予想
できなかったのである。 
 



 


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たぶん……続きがあると思います。