無知 あれ以来、清四郎は寝つきが悪くなっていた。あれ、とは剣菱万作に「二人には愛があっ ただ」と言われた「あれ」である。 (愛、愛……。愛とは一体なんだ) いくら考えても答えは出てこなかった。ベッドの中で目を瞑ってみても、暗闇の中、白い 光が瞬くだけだ。 清四郎は大真面目に辞書で「愛」の意味を調べてみたりもした。 愛――対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気 持ちの表れ――だそうな。 なるほど、これは自分の悠理に対する気持ちに近いかもしれないと、清四郎は思ったの だが、一方で、「違う」と、思っている自分もいた。 その日の体育は、悠理と魅録のクラスと合同授業だった。内容はバドミントンである。好き な者同士で組めということで、当然の如く清四郎と魅録はペアを組んだ。 試合の前の練習時間。魅録はシュ、シュ、と真面目に素振りをしていたが、清四郎はラケ ットのガットの上でシャトルをポンポン跳ねさせていた。まあ、要するに遊んでいた。 熱心に取り組んでいるところを見せたがらないのが、AB型の彼の特徴だ。 「おーし、体も温まってきたし、ちょっと打ち合いしようぜ」 「そうですね」 と、魅録と距離をとるために、清四郎が後ろへ下がったとき、ひゅーん、と空中を飛んで いくシャトルが見えた。何気なく行く末を目で追うと、その軌道の先に悠理の鳥頭、いや、 鳥の産毛のようなふわふわ髪の頭があることに気がついた。 「あぶなーい!!」 咄嗟に清四郎は駆け出していた。悠理に向かって一目散……のはずだったのだが、体 育館の天井から吊り下げられていたネットに顔から突っ込む羽目になってしまった。男女 のスペースが仕切られていたのをすっかり失念していた。 「な、なにやってんだよ、清四郎……」 少し慄いているような魅録の声を聞いて、転んでいた清四郎はずるずるとネットを手繰っ て起き上がった。なんとも情けない失態である。 ヨロヨロと戻ってくる清四郎に、魅録は無意識に追い討ちをかけた。 「いきなりネットに向かって走るんだもんな。まるで闘牛みたいだったぜ」 「……今の出来事は忘れてくれ」 転んだ拍子に打った肘を押さえながら、清四郎はそう言うのが精一杯だった。 四時限目が終わり、昼食をとるため生徒会室へと向かう清四郎を、今日は皆、モーゼの 十戒の海のように避けていく。何故かといえば、それは彼があまりに気難しい顔をしていた からであった。 清四郎は体育の授業からずっと、悶々と考え込んでいた。 (さっき、僕は……悠理を助けようとした!) シャトルが悠理の頭に当たりそうなのを見て、体が自然と彼女に向かって走り出していた。 冷静になって考えてみれば、何とも馬鹿げた話だと思う。シャトルが当たったとて、普通 は痛くも痒くもあるまい。あんな死に物狂いでシャトルを追いかけるなんて、自分はどうかし ている。 (……これも愛なのか?) たとえどんなに馬鹿げていても、そうせずにはいられない衝動。これを人は愛と呼ぶのだ ろうか。 (分からん) うーむ、と首を傾げたとき、ガン!と脳裏にチカチカと火花が散った。 考えに耽るあまり、今度は生徒会室の扉に正面衝突したのだった。 「……」 むすっ、として中へ入ると、既にテーブルについていた野梨子が「きゃあ」と悲鳴を上げた。 「清四郎、額が真っ赤になってますわよ」 「いや、これは」 と、言いかけたとき、やはり先に来ていた魅録がニヤリと笑った。 「また、牛みたいにどっかへ突っ込んだか?」 「ぐ」 図星を指されて、清四郎は言葉に詰まってしまった。普段の彼なら、これくらいかわせる はずなのだが、いかんせん今日は調子が悪い。 「いいじゃないですか、僕がどこにぶつかろうと」 ぶつぶつと呟いて、魅録と野梨子の向かい側に腰を下ろした。いつからか、ここが清四 郎の指定席になっていた。それというのも、目の前の二人が仲良くなってしまったからだ。 「うわ。野梨子の弁当って、いつ見ても美味そうだよなぁ」 「あら、そんなことありませんわ。魅録のお弁当の方が美味しそうですわよ」 「いや、野梨子の方が」 「嘘、魅録ですわ」 うふふ、あはは……。きゃっきゃっと幸せオーラを撒き散らしている彼らを、清四郎はぼん やりと眺めた。 愛。 気がつくと、十の瞳がじっと清四郎を見つめていた。 「……あ」 だいぶ長いこと頬杖をついていたらしく、腕にじんじんと痺れがある。自分以外の五人は 弁当を広げているのに、こちらといえば、弁当箱を鞄から出してすらいない。 一つ瞬きしたあと、足元の鞄をがさごそと探り始めると、五人は薄気味悪そうに言った。 「ちょっとぉ、あんた大丈夫?」 「ぼけーっとしちゃってさ」 「なんだか怖かったですわ」 「悩み事でもあるのか、お前……」 「どうせ、何か変な薬のこととか考えてたんだろ」 「違う、僕は」 言いかけて、また清四郎は口を噤んだ。こんな悩み、恥ずかしくて誰にも言えるものか。 放課後。魅録と野梨子が付き合い始めてからというもの、清四郎は悠理と帰宅することが 多くなっていた。 昇降口のロッカーに凭れて待っていると、悠理がバタバタと忙しない様子で走ってきた (別にドキドキするわけじゃないんだよなァ) 清四郎は自分の胸に手を当てながら思った。 悠理の前に立っても、緊張したりすることはないし、切ない気持ちになったりすることもない。 「わりー、わりー。教室出たところで、老平に捕まっちゃってさ」 「え」 清四郎は眉をひそめた。 「老平先生に?どうして」 「うっ」 悠理はパッと口を押さえた。清四郎には、彼女が何かを隠したがっていることが、すぐわ かった。 「もしかして、追試ですか」 見る見る悠理の顔が赤面していく。どうやら当たったらしい。 「……あたしだって、頑張ったんだかんね!」 「はあ」 深いため息を清四郎はついた。どうしてコイツはこうも成長しないのだろうか。 「あんなに猛勉強したのに」 「しょうがないじゃん、赤点一つくらい」 ガチャガチャとロッカーを開けている悠理は、少し膨れっ面をしている。 ……うん? 清四郎は視線を泳がせた。今、何かが自分の中を吹き抜けていったような気がした。 「でさ、今度あの店行こうよーっ……って、聞いてんのかよ!?」 「え、あ、はい」 ぐいぐいと制服の袖を引っ張られて清四郎は、悠理を見下ろした。 「なんだよ、さっきからボケッとしちゃってさ」 「それは、すいません」 「……そりゃ、赤点取ったのは、あたしの努力不足だけど」 「……」 清四郎は、口を曲げた。それはもう済んだ話だ、悠理……。 「そんな無視しなくってもいいじゃん」 「無視してない」 「してるっ」 「してません。ただ考え事をしていただけです」 綺麗な悠理の顔が少し歪んだ。……また、風が吹いていく。 「そんな顔しないで。僕が悪かった」 「そうだよ、お前が悪いんだ」 「赤点取ったこと、もう僕は全然責めてなんかいませんよ」 「嘘」 「本当です」 「いーや、信じない!いっつもお前はあたしのことバカにしてるもん」 きっぱりと悠理は言い切った。 不意に清四郎は切ない気持ちに襲われた。自分の言葉は、どうしてこうも素直に悠理に 届いてくれないのだろう。 さっき言ったことは、紛うことなき本心だったのに。 「寒い」 清四郎は両手を制服のポケットに突っ込んだ。秋風が身に沁みるとは、こういうことか。 「やっぱ、お前お坊ちゃんだなー」 首にマフラーを巻いている悠理が呆れたように言った。 「そりゃ、悠理はマフラーしてるからいいでしょうよ」 「じゃあ、貸してやるよ」 「いや、いい」 マフラーに手をかける悠理を清四郎は制した。マフラーがなかったら、スカートを履いて いる分、彼女の方が冷えてしまうはずだ。 だけど、悠理はニコニコと笑って、するりと派手なボーダーのマフラーを外した。 「遠慮すんなってぇ」 「でも、悠理が風邪引いたら困ります」 清四郎がそう言うと、悠理の顔が少し強張った。一瞬、泣くかと思った。 「なーんでそういうこと言うんだろ……。いっつもあたしのこと「バカは風邪引かない」ってか らかうくせにさぁ」 「あれは」 言葉のあやだ、と言い訳しようとしたとき、ふわりと原色のボーダーが目の前を舞った。 どこか拗ねたような顔の悠理が、清四郎のすぐ目の下まで来ている。 「あたしが良いって言ってんだから、使えよっ」 マフラーをぶっきらぼうな手つきで巻いてくれる悠理の耳が赤く染まっているのが、やけ に鮮明だった。 「……ありがとう」 多分、今自分の目は真ん丸になっているだろう、と清四郎が思っていると、悠理はタタッ と三メートルほど前方に離れた。 腕組みして、まじまじとこちらを見ている。まるで何かのテストのようだ。 やがて悠理はゲラゲラと笑い出した。 「似合わねーッ」 と、言って指さすから、清四郎は少しムッとしたが、胸の辺りは何だかくすぐったい。 「似合わなくて、悪かったね」 小さく呟いて、離れている悠理へと歩み寄った。 さっきから悠理はやたら落ち着きなく飛んだり跳ねたりしている。 「えへへ」 「まだ笑ってるんですか?」 そんなにこのマフラー姿が変か?清四郎が幾分げんなりしていると、彼女がこちらを振り 返った。 その顔に浮かぶ子供みたいな満面の笑みに、清四郎は動揺した。 そんな顔しないでほしい。 自分がひどく汚れているような気がするから。 とっても悲しくなるから。 不安なことばかり考えて、泣きたくなるから。 「いや、だってさぁ。案外、清四郎に合うかもしれないと思って。そのマフ」 「そうかな」 清四郎はアスファルトに目を落とした。悠理の顔が見れなかったのだ。 もう、愛のことは考えなかった。 BACK |