姉と弟、もしくは兄と妹



「あれ」
 雑踏の中、ふと清四郎は立ち止まった。姉の和子らしき姿が、人波の中に見えたよう
な気がしたからだ。
 だが、ここは彼女の大学の近くでもないし、通学に使う電車が通っている場所でもな
い。要するに、あまり縁のない地である。

(気のせいか?)

 そう思い、前を行く仲間のもとへ歩き出そうとしたとき、再びその人物がざわめきの中
から姿を現した。
 今度ははっきりと顔が見えた。間違いなく、和子その人だった。
 彼女は、明るいベージュの女らしいツーピースを着ている。あれは、この間買ってき
て清四郎に散々見せびらかした勝負服だ。

(まさか……男?)

 清四郎の胸が騒いだ。いくら、子供の頃からこき使われてきた姉とは言え、大切な家
族には違いない。もし彼氏がいるなら、どんな男か見ておきたい。
 彼は、仲間たちとは別れて、姉を追跡することに決めた。何だか素行調査みたいで、
気は浮かなかったが、仕方あるまい。もし……姉が変な男に騙されていたらいけない。
 幸い、尾行は楽だった。ここは都会のド真ん中。清四郎の姿や足音を大勢の人間が
隠してくれる。
 和子は、人の波をかき分け、すいすいと泳ぐように進んでいく。やがて、彼女は一軒
のコーヒーショップに入った。

(……どうする、入るか?)

 別に入ってもいいのだが、今の清四郎は制服を着ている。詰襟に、この長身はちょっ
と目立ちそうだ。うーん、どうするかな。
 入り口の前で、うろうろ逡巡していると、不意に袖を引っ張る者がある。
「うわああっ!!」
 異常に驚いた清四郎は両手を上げて、奇天烈なポーズを取ってしまった。慣れない
尾行に知らず知らずのうちに緊張していたらしい。
「なんだよぉ……」
 いきなり奇声をあげる男子学生に奇異な目を向ける人々の中に、悠理がポカンと口
を開けて立っていた。
 彼女の姿を認めた清四郎はササッと姿勢を正した。コイツに醜態を晒すことだけはし
たくない。
「なんだ、悠理か。どうしてここにいるんだ?」
「おまえが勝手にどっか行っちゃうから、探しに来たんじゃん」
「そうか、それはすまなかったな。僕なら心配はいらない。じゃ、帰ってくれ」
 用は済んだとばかりに、清四郎は背を向け、再びコーヒーショップの中を覗きにかか
ったが、好奇心の塊である悠理が素直に帰るはずもなかった。
「ねー、なにやってんの?覗き?」
「覗きとは失礼だな!……か、監視ですよ、監視!」
 あまり効果的な言い換えではない。
「誰を監視してるの?」
「誰でもいいでしょ!さっさと帰ってくださいよ」
「い・や・だ・ね」
 と、笑う悠理に、清四郎は苦々しい気持ちになったが、仕方ないので放っておくこと
にした。取り合えず、今は姉を探すのが先決だ。  
 通りに面したコーヒーショップのウインドーの角から、こそこそと中を窺う。黒いロング
ヘアーに、ベージュのツーピース。
 それこそ目を皿のようにして探した清四郎だったが、先に見つけたのは、悠理だった。
「あ、あれ和子さんじゃん?」
「どこだ!?」
 目を剥く清四郎に、悠理は薄く笑みを浮かべた。
「なんだよ、おまえ……和子さんのこと監視してたの?」
「むっ。……とにかく、どこにいるんです」
「あのカウンターのすぐ横のテーブル」
「どれどれ」
 悠理の言う場所に目をやると、果たして和子が座っていた。一人ではない。彼女の
向いの席にはグレーのスーツを着た男性がいた。清四郎たちには、ちょうど背を向けて
いて、顔は見えない。
 じーっ、と清四郎が二人の様子を盗み見ていると、スーツの男が和子の頬に掛かっ
た髪をさりげなく手で払った。清四郎は思った。あんなこと……恋人以外ではやらない
だろ!?
「だ、誰なんだ、あれは?」
「男だろ」
「それは分かってます!名前ですよ、名前!!」
「知るかよ、そんなの」
 と言いつつ、悠理は首を傾げた。
「でも、あの後ろ姿、なんか見覚えがあるような……?」
「悠理、思い出すんだ!なんとかして、思い出せぇぇ!」
 首を絞めかねない勢いで、清四郎は悠理の肩を揺さぶった。
「わ、わかんないよう!そんなこと言われても!」
「あっ。あいつら立ち上がったぞ、隠れるんだ!!」
 清四郎は悠理の首根っこを引っ掴み、店の裏に身を潜めた。排気口からは、食物臭
い熱風が出ている。
「やだ、ここ〜。臭い!」
「我慢しろ」     
 しばらくその場に立っていると(傍から見れば、非常に怪しい二人だった)、和子とそ
の連れが店から出てきた。
「で、出てきた」
 清四郎はいつになく緊張していた。もうすぐ……姉の彼氏の顔を拝める。あの、姉の。
 和子は楽しそうに笑いながら、男の腕に手を回している。二人はこちらへ歩く方向を
変えた。その瞬間、清四郎は「あ」と口を開けた。隣の悠理も同じ表情をした。なぜならば、
「兄ちゃん!」
 その和子と腕を組んだ男は、悠理の兄の剣菱豊作氏だったからである。
「えー、ウソ〜!!」
 予想しえない事実に、清四郎はらしくない声を上げてしまった。 
 清四郎と悠理は、慌てて店の裏から通りへ飛び出した。ぴょんと出ると、目の前には
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした豊作と和子が立っていた。
「な、なんでおまえたちが、こ」
「清四郎!なんで、あんたがここにいんのよ!!」
 豊作の言葉を遮って、和子は弟を猛攻撃した。
「まさか、あんた。私たちを監視してたんじゃないでしょうね。いや、やりかねないわよね、
あんたならさぁ。なんたって変態だもんね」
 だが、清四郎も負けてはいない。
「冗談は、よしてくださいよ。僕が、この僕が!姉貴のことを追い回すなんてことするわ
けないでしょう?ちゃんちゃら可笑しいですな!まるで、ヘソで茶を沸かすようだ」
「あんた、例えが古いのよね。ジジイかよって」
「姉貴に言われたくないですよね。もうすぐ二十も後半なのに、若ぶって」
「まだ二十代中盤よ!!」
「はあ?大きな声出さないでくれます?」
 菊正宗家での普段のコミュニケーション振りが垣間見えたところで、豊作が「まあまあ」
と、二人の間に割って入った。
「こんな往来でよさないか、和子さん。皆が注目しているよ」
「あ、あら、そうね!豊作さん(はぁと)」
 豊作を見る和子の視線は、清四郎と悠理にも分かるほどに熱を帯びていた。
「……」
「……」
 悠理は無言で顔を赤らめ、清四郎は無言で口を押さえた。気持ち悪くなったのだ。
「まあ、悠理ちゃんたら顔真っ赤じゃない。ふふ、私たちのアツアツ振りに当てられちゃ
ったかしら?」
「え!?ち、違うよぉ!」
 悠理はブンブンと手を振った。清四郎は「そんなわけあるか!」と物凄い勢いで否定
したかったが、なんとか堪えた。
「そ、それよりですねぇ。どういうことなのか、説明していただきたいんですが」
「どういうことって、見てのとおりよ。私たち付き合ってるの。ね、豊作さん」
「ああ、そうなんだよ、清四郎くん。悠理も……いつかは打ち明けなきゃとは思っていた
んだけどね」
 しっかりと頷く豊作に、清四郎は口元を小さく歪めた。

 ――豊作さん……あなたは、騙されている!!

 清四郎は、剣菱豊作という人物を以前から、好もしく思っていた。
 型破りな人物の多い剣菱ファミリーにおいて、孤高を保っている唯一の常識人。そん
な彼のスタンスを、清四郎は尊敬しているのだ。
 一見すると、気弱で優柔不断にも思えるが、この若さで剣菱の事業の一端を担って
いるのだから、生半の根性ではないこともうかがえる。それに、あの家でまともに育っ
たというだけでも尊敬に値するではないか。
 そんな男が……姉、和子のような悪どい女に捕まっていいはずがない、そう清四郎
は考えたのである。
「豊作さん、一度冷静になった方がいいですよ」
「え?どういう意味だい」
「恋愛というのは、脳内物質が作り出す、いわゆる幻覚症状の一種で……」
 エンドルフィンがどうたらこうたらと、清四郎が講釈を述べようとしたところで、和子が
冷たく言い放った。
「恋愛したことないくせに、なに言ってんのよ」
「ありますよ、恋愛くらい」
「嘘ばっかり」
「嘘と思いたいなら、どうぞご自由に。だけど、僕は言わせてもらいたい」
 清四郎は、「やめなさい〜!」と間に入ろうとする和子を押し退けながら、豊作を見つ
めた。
「あなたは、姉貴の本当の姿を知らないんだ!」
「え〜、和子さんの本当の姿って、なになにぃ?」
「悠理の返事は聞いてない〜っ!」
 いきなり割り込んでくる悠理に、清四郎は気を削がれてしまった。
「ああ、もう。何を言うか忘れちゃったじゃないですか」
「だって、気になったんだもーん」
「なったんだも〜ん♪じゃないでしょう」
 めっ、と睨む真似をすると、和子がにやにやと笑った。
「清四郎と悠理ちゃんって仲良しなのねぇ」
「なっ……仲良しですよ。仲良しで悪いんですか!?」
 そう言う清四郎の顔は、何故か真っ赤になっている。
「ねーえ?……そんなに仲良いなら、あのまま結婚しちゃえば良かったのに」
「う、うるさいな!そんなことよりも、今は豊作さんに話があるんだ、僕は」
 僕は!と力説しようとしたのだが、
「すまない、清四郎くん。僕たち、これから急ぐ用事があるんだよ」
 あっさり、豊作にかわされてしまった。和子は、嫌味ったらしく二枚の紙切れをひらひ
らと清四郎の目の前で振った。
「私たち、これからN響のコンサートなの。邪魔しないでもらえるかしら?」
「くっ」
 そう〜〜!下品な罵りを、清四郎は何とか飲み込んだ。
 彼は、どうしても優等生気質なために、人のスケジュールを乱してまで、自分の意見
を押し通すことはできないのだった。そう、できるものか。
「分かりましたよ。今日のところは引き下がりましょう……だが、豊作さん!」
「は、はい!」
 きらりん、と煌めく清四郎の瞳に射抜かれて、豊作は思わず起立の姿勢を取ってしま
った。    
「僕たちは、一度話し合う必要があると思います。今後の対策について」
「は、はあ。対策、ね…ぇ…?」
 一体、何の対策だ。豊作は思ったが、何かと切れる清四郎のこと、深い考えがあって
のことだろうと問い返すことはしなかった。
「なーにが、対策よ!さ、豊作さん、行きましょう」
「あ、うん。それじゃあね。悠理も寄り道しないで、早く帰るんだぞ」
「うん。ばいば〜い」
 和子に引き摺られるようにして去っていく兄に向って、悠理は手を振った。清四郎は
「しっしっ」と(和子へ向けて)手を振った。
「どこへなりと行ってしまえ」
「ねー、あたし喉渇いちゃった。ここの店、入ろうよ」
 本当はもう帰りたい気分の清四郎だったが、悠理がしつこいので、今しがた和子と豊
作がいたコーヒーショップに入ることにした。


 カウンターでコーヒーを受け取ると、悠理は二階への階段に直行した。バカは高い所
が好きと決まっている。
 窓際のテーブル席に二人は座った。 
「でも、驚いたな〜。まさか兄ちゃんと和子さんが付き合ってるなんて」
「そんな暢気な感想を抱いている場合か!」
 清四郎は苛々とテーブルを指で叩いた。 
「考えてもみろ。もし、姉貴と豊作さんが結婚したら……僕たちは義理の兄妹になるん
だぞ」
「え〜っ!そうか、あたしたち、兄妹になっちゃうのかぁ」
 変なの、と呟く悠理の向いで、清四郎はふと表情を暗くした。そういえば……。
「悠理……おまえ、誕生日はいつだ?」
「あたし?4月だけど。清四郎は何月だっけ?」
「……」
 悠理の質問には答えずに、彼は俯き、カップのコーヒーを見つめた。

(な、なんということだ……このままでは、僕は悠理の『義弟』になってしまう!)

 つまり、清四郎は悠理より数ヶ月誕生日が遅かったのだ。
 これは、瑣末なようでいて、重大なことである。彼の自尊心に置いては。
「しかし、二人はどこで知り合ったんでしょうね」
「……あたしたちの婚約パーティー?」
「あー……」
 清四郎と悠理は、ふと視線を合わせた。彼らにとってはあまり思い出したくない出来
事だ。
「そうか、確かに、あのときなら顔を合わせてるか」
「多分ね」

(皮肉なものだな、僕たちの婚約は破れたのに、逆に姉貴たちは……)

 ふっ。少し哀愁を漂わせながら笑みを浮かべようとした清四郎だったが、そうは問屋
が卸さない。感傷的なムードは彼らには似合わない。悠理がカップを倒し、テーブルを
コーヒー塗れにしてしまったのだ。
「なにやってるんですかあ!」
「だって、だって〜」
「ほら、早く拭きなさい、もたもたしてないで〜!」
 紙ナプキンを素早く取って、コーヒーを吸い取らせながら、清四郎は不吉な予感を覚
えた。 

(なんか……ずっとこんなことが続きそうな……まさか……ね?)

 未だ、あたふたしている悠理。その後始末をする自分。あまりに嵌りすぎている構図だ。
「あーっ、もったいない!」
「悠〜理っ!」
 すぱこーん、と清四郎は、テーブルに口を近づけている悠理の頭を叩いた。
「意地汚い真似をするんじゃありません!!」
「食べ物は粗末にするなって父ちゃんが言ってたもん!」
 真剣な調子で言い募る悠理に対して、清四郎は最早、この言葉しか思い浮かばな
かった。
「……バカ!」


 コーヒーショップを出た二人は、ぶらぶらと街を歩いていた。
「今日の夕飯、何かなぁ〜」
「悠理って、いつも食べ物のことしか考えてないんですね」
「そんなことないよ!」
「そんなことあるでしょ。別に、嘘つかなくてもいーんですよ」
「あたしも、色々悩みごとくらいあるってば」
「ふーん、そう」
 もっとも、清四郎は悠理の悩み事なんぞに、興味はない。彼の興味は今のところ、姉
と豊作の関係に向けられている。 
 彼らは本当に恋愛しているというのだろうか?愛し合っている?
 では、結婚する気だろうか。
 姉は、もう剣菱の家に挨拶に行ったのか。
 あの姉とおばさんが果たして上手くやっていけるものだろうか。
 考え出すと、悩みは尽きない。
「いや、違うだろ」
 清四郎は思わず独りごちた。いつの間にか自分が悩んでしまっているが、これは本
来なら和子の悩みであるはずだ。
 悶々としていると、悠理がひっそりと呟いた。
「……だけど、あたしだって、ちょっとショックだったんだから」
 彼女らしからぬナイーブな発言に、清四郎は少し驚いた。悠理は整った眉を寄せ、
悩む風情を漂わせている。真剣な表情をしていると、誰より端整な顔をしていることがよ
く分かる。
「兄ちゃんに恋人がいるなんて……なんかピンと来ないよ」
 『よっ!』と、鞄を振り回す悠理から、清四郎はさりげなく身を離した。
「悠理は、まだまだ子供だな」
「はあ?なに大人ぶってんのさ」
「兄妹なんて、いつかは離れ離れになるもんですよ」 
「わかってらい、そんなこと!」
 悠理は道端の空き缶を目の敵のように蹴り上げた。自販機の横のゴミ箱に、からんと
落ちる。
「よっしゃあ〜!」
「……お見事」
 得意気に悠理がこちらを見てくるので、清四郎はお愛想を言ったが、拍手まではする
気になれなかった。
 先程、悠理に言った言葉で、自分の気持ちに気が付いてしまったのだ。

 ――まだまだ子供だな。

 本当は誰に一番言いたかった言葉なんだか……。
 清四郎はやるせなく青空を見上げた。悠理は暢気に「あの雲、たこ焼きみた〜い」な
んて、白い雲を指差している。
 子供みたいな悠理。空に向って伸ばす華奢な指を、横から掠め取りたくなる。
 豊作にも、こんな風に無邪気なところがあるのかもしれない。そして、姉はそんなとこ
ろに惹かれたのかもしれない。
 無邪気という言葉とは無縁の姉弟ゆえ。






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当初、考えていたのとは別の方向に行ってしまった。萌え所が少なひ……。
 悠理の誕生日が4月というのは、何の根拠も無い妄言です。
 清四郎が、実は悠理より遅く生まれたことを気にしてたりしたらいいよ!
 タイトルもハゲ適当だべ〜。