振り回されて…秋 風邪をひいて学校を休んだ午後。清四郎は自室のベッドに横になっていた。熱はだ いぶ引いたが、頭はまだぼんやりしている。 開け放した窓になんとなく目をやると、風に揺れるカーテンの向こうに、葉の落ちかけ た木が見えた。 (……風邪で死ぬわけないけどさ) それでも、「最後の一葉」なる話を思い出して、少し侘しい気分になってしまった。そ んなとき、不意に部屋のドアがコンコンと鳴った。 「はい」 返事をすると、外からくぐもった声が聞えた。どうやら姉の和子のようである。 『あんたのクラスメートが来てるんだけど』 清四郎は起き上がり、ドアを開けた。ヘアバンドで髪を上げた和子が立っていた。顔 が不自然なまだら色をしている。化粧の途中だったらしい。 「誰だよ」 「ひどいわね。あたしよ、あんたのお姉さまよ」 「そうじゃなくて、僕のクラスメートのことですよ」 「わかんない」 「名前聞かなかったんですか」 「だって、あのコ……なんかもじもじしちゃって、何言ってるかわかんなくてさ」 「どんな人?」 清四郎が尋ねると、和子の顔がにま〜と崩れた。妙に嬉しそうだ。 「すっごく綺麗な男の子!」 「綺麗な男の子ぉ?」 彼はそんなクラスメートには心当たりがなかった。大体、男に綺麗なんて形容を使う か。 「知らねえな、そんなヤツ」 「なによ、その言葉遣い」 「存じ上げませんね。そのようなお人は……」 「とにかく早く出なさいよ。玄関で待ってもらってるんだから」 「分かった」 和子が出て行ったあと、清四郎は急いで寝巻きから普段着に着替え、階下へ下りた。 玄関に行くと、派手なブランド物らしきコートを羽織った美少年が所在無げに立って いた。長い手足を持て余すように、下駄箱の上に飾られた骨董の壺を眺めている。 「これはこれは、どこの男の子かと思えば」 清四郎が揶揄するように言うと、その美少年はギョッとした顔で振り返った。 「あ!」 「あ!じゃないでしょ。何を驚いてるんですか」 「ていうかさ、おまえ今、あたしのこと男って言っただろ!!」 「……僕が言ったんじゃないですよ。僕の姉がね」 「姉って、さっきの綺麗なねーちゃんか!」 「綺麗かなぁ?あれが」 だが、身内を褒められて悪い気はしない。清四郎は心持ち頬を緩ませながら、目の 前の美少年……もとい美少女のクラスメート、剣菱悠理を見た。 茶色く柔らかな髪、凛々しく意志の強そうな瞳は、確かに綺麗なものだ。その完璧な 顔の造作に、清四郎は今更ながら感心してしまった。 「なんでさっきから、じろじろ見てんだよ!」 「あれ」 「あれ、ってごまかしてんなよ、スケベやろう!!」 「スケベって、悠理相手に有り得ない……」 「な、な、な……あたしだって、女なんだからな!胸だってあるし、ブラだってしてるん だぞ!!」 し〜ん。 「ま、まあ……ね。それで、何の用で来たんですか。こんな僕の家くんだりまで」 どう反応したら良いのか分からなかったので、清四郎は話の向きを変えた。 「もしかして、僕のことを心配して、お見舞いに来てくれたとか」 「違うもん!」 「違うのか」 首をぶんぶんと振る悠理に、清四郎は内心がっかりした。そんな彼の落胆に彼女は もちろん気が付かない。背負っていたリュックサックを上がり框に下ろして、中をごそご そと漁り始めた。 「あのさ、お願いがあって……」 「なに?」 聞き返しながら、清四郎は嫌な予感がした。こいつが「お願い」なんて言葉を持ち出 すときはろくなことがないということが、最近分かってきている。 やがて悠理は一冊のノートと教科書を取り出した。それを見た瞬間、清四郎は思わ ず額に手を当てた。まさか、こんなときに。 「清四郎、これ……お願いっ!」 「聞きたくない」 清四郎は両手で耳を塞いで、そっぽを向いた。 「そんなの知らない!」 「頼むよ〜、明日あたし当たるんだもん!」 「僕は病み上がりなんだぞ。おまえは病人を酷使する気か!」 「そんな扱き使うようなことしないってば。ちょっとだけアドバイスを……ね?」 「嫌です」 「ま、待ってよぉ。清四郎ちゃん〜」 「誰が待つか!」 しつこく袖を引く悠理を振り払おうとしていると、廊下の向こうから、ぱたぱたという音 が聞えてきた。 「あーら、清四郎ったらダメじゃないの。お友達をこんなとこで立たせてたら」 ばっちり化粧を終えた和子だった。 「姉貴には関係ない」 「ほらほら、上がってもらいなさいよ。そうだ、この間叔父さんから貰ったケーキがあった じゃない」 「余計なこと言うなよ〜っ!」 清四郎は和子に向って喚いたが、すでに遅かった。食欲の権化である悠理の目は キンキラキンキラと輝いている。 「ケーキ?ケーキがあるのぉ?」 「ケーキなんかない!この家には断じてケーキなど一片たりともありませんッ!!」 叫ぶと、清四郎の頭はぐわんぐわんと揺れた。風邪引きなのを忘れていた。 「痛ぇ〜」思わず頭を抱え込む。 「なにをそんなにムキになってるのよ。さ、上がって上がって」 「は〜い、お邪魔します!」 悠理は遠慮など欠片も見せずに、さっさと靴を脱いで上がり、和子の後ろを着いてい く。清四郎はその後姿へ向けて言葉を投げた。 「くっ……僕はおまえの宿題なんか、絶対にやらないからな!!」 「私がやってあげるわよ。そういえば、あなたの名前、まだ聞いてなかったわね」 「あ。あたし、剣菱悠理です」 「剣菱悠理!?あなたが、あの剣菱悠理クンなの!」 和子は「へーっ、そうなんだー」と、やたらに興味を示している。清四郎はよろよろと 二人の後をついていきながら、そんな姉を訝しく思った。 「お姉さん、妙に興奮してるじゃないですか。鼻息が荒いですよ」 「うるさいわね。だって、中等部の剣菱悠理って言ったら、美少年で有名じゃない」 「……」 悠理は黙ってしまう。清四郎は素っ気無い調子で言った。 「女ですよ、こいつは」 「は?誰が?」 和子が後ろを振り向く。 「あんた、今なんて言ったの?」 清四郎はニヤニヤと噛んで含ませるように言った。 「だーかーら、剣菱さんは女の子なの。美少年じゃなくって、美少女ってことだよ」 「だ、誰が美少女だよ!気持ち悪いこと言うな!」 悠理が頬を真っ赤にして清四郎を睨んでくる。その顔が意外と可愛いことに、彼は少 し驚いた。 「うっそー!剣菱悠理って男じゃなかったの!?やだー勘違いしてたわ、今まで」 和子も顔を赤くしている。間違った知識を持っていたことが恥ずかしいのだろう。悠理 に対して頭をぺこぺこと下げる。 「ごめんね。私、失礼なこと言っちゃったわ。悠理クンじゃなくて、悠理ちゃんよね」 「そうですよ、本当に失礼な人だな〜まったく」 「あんたは黙ってなさいよ。本当にごめんなさい、悠理ちゃん」 「い、いいんです。別にあたし、女の子っぽく見られたいとか思わないし〜」 「……」 あはは、と笑い飛ばす悠理だったが、清四郎には彼女がなんとなく無理をしているよ うに思えた。 悠理を応接間に案内すると、和子は「今、ケーキ用意するわね」と、部屋を出て、台 所へ向った。清四郎もその後を追う。 「僕は、もう寝るからな」 「なんでよ」 「風邪引いてるんだぞ」 「どこがよ、元気そうじゃない」 「全然、元気なんかじゃない!」 取り合ってくれない姉に、清四郎はじれったくなった。先程まで出ていた咳が、こうい うときに限って収まっているのが、うらめしい。 「頭だって痛いし、まだ寒気だってするんだよ」 「あんた、病は気からって言葉知らないの?」 「ただのことわざじゃないか」 「なにか仕事してた方が、かえって良くなるってこともあるのよ」 そう言うと、和子は清四郎にケーキと紅茶を乗せた盆を突きつけた。 「ほら、あんたの友達なんだから、相手してあげなさい」 「……宿題は姉貴がやってくれるんですよね」 じとー、と見る清四郎に向って、和子は「あ、いっけない!」とわざとらしく口に手を当 てた。 「私、これからデートだったのよね」 「なんだってぇ!?」 「ごめんねえ。夕飯はいらないって言っておいて。じゃね〜」 「ま、待てよ!」 と、和子の肩を清四郎は掴もうとしたのだが、生憎両手は盆で塞がっていた。和子は すたこらさっさと台所から逃げていってしまう。 「畜生〜!!」 地団駄を踏もうにも、紅茶が零れる恐れがあるので、それもできない。やり場のない 怒りを抱きつつ、彼は渋々応接間へ戻ることにした。 清四郎は応接間の襖を足で開けた。行儀が悪いが、手が塞がっているので仕方が 無い。縁が当たる「バン!」という音に、ソファーに座っていた悠理がぎくりと肩を強張ら せた。 「び、びっくりしたぁ」 その暢気な声に苛立ち、清四郎は悠理をキッと睨んだ。 「悪かったですね、びっくりさせて……」 「!!」 相当、清四郎の態度が怖かったのだろうか、悠理の顔がくしゃりと今にも泣きそうに 歪んだ。 (やべッ!) 泣かすのは、さすがに拙い。清四郎はテーブルに盆を置き、殊更明るい声を出した。 「そうだ!テレビでも見ますか?」 「……」 じっ、と悠理は清四郎の顔を見つめた。まるで幼い子供に、信用できる人間なのかど うか値踏みされているようで、落ち着かない気分になる。 「あ、あの……」 「見る」 「へ?」 清四郎が聞き返すと、悠理はきっぱりと言った。 「テレビ、見る」 「……そう。じゃあ点けましょう」 テレビの電源を入れながら、清四郎はドキドキしている胸を密かに押さえた。 (な、なんなんだ、一体) こいつの考えていることが分からない……。人の感情に聡い清四郎としては、その感 情を悟ることができないことが、一番怖い。 悠理の考えていることは容易く分かる反面、一部の分からないことは、永遠に闇の中 という感じもする。 パッと明るくなる画面には、子供向けのアニメが映し出された。チャンネルを変えよう とすると、悠理が「あたし、これ見てる」と言うので、そのままにしておく。 清四郎は悠理の向いのソファーに腰を下ろした。ぐったりと背に凭れる。悠理は「ケ ーキ、ケーキ♪」と、ご機嫌な様子。 (本当にお天気屋だ、この人は……) さっきまで泣きそうだったくせに、もう笑っている。 「……アホらし」 「なんか言った?」 「別に」 落ち着いたら急に頭痛が再発してきた。アームレストに肘をついて、額を手で覆う。 頭の中は、御陣乗太鼓の素敵なハーモニーが満ち満ちている。 「清四郎、ケーキ食べないの?」 「食べますよ」 そう易々と、悠理にケーキを渡すのも腹立たしかったので、清四郎は無い食欲を振り 絞り、フォークで一欠けらを口に運んだ。それはモンブランだった。 「甘い」 「当たり前じゃん、ケーキなんだから」 「……悠理、教科書とノート」 くれくれ、と手で催促すると、悠理の顔が歓喜に輝いた。 「えっ、やってくれるの!?」 「中等数学で僕に解けない問題はないんだ、任せとけ」 清四郎は半ば自棄になっていた。頭は相変わらずガンガンしているが、やけに冴え てもいるようでもある。 ところが、今度は逆に悠理が遠慮しだした。 「で、でも……やっぱり、悪いからいいよ」 「なに言ってるんだ。いいから、貸してみろ」 「ううん、ダメだよ!清四郎、具合悪そうだもん……」 悠理の言っていることは滅茶苦茶だ。宿題をやらせるために来たくせに、なにを今更。 清四郎は混乱してきた。 「じゃあ、なんで来たんですか」 「……あたし、帰る!」 「はあ?」 訳が分からないままに、清四郎はソファーから立ち上がる悠理を見上げた。彼女はど こに隠していたのか、いきなり風呂敷に包まれた壺のようなものを清四郎に差し出す。 「これ、あげる」 「なんだ?」 「梅干!」 「……な、なぜ、これを僕に」 壺一杯の梅干を抱えて、清四郎は当惑した。そんな彼に、悠理は何故か恥ずかしそ うに頬を染めている。 「うちの父ちゃんが漬けたんだけどさ、これお湯に入れて飲むと、すっごい風邪に効く んだ」 「へ、へえ……」 「それじゃあ、あたし帰るから!」 呆気に取られる清四郎を残して、悠理はスタタター!と部屋を出て行ってしまった。 梅干……お湯に入れて……風邪に効く……。 「悠理〜っ」 ことの次第を理解した清四郎は背凭れに頭を乗せて、天井を仰いだ。彼女はいない が、思わず非難めいた声が出る。 「見舞いに来たなら来たって、素直に言ってくれよ……」 お見舞いなんて柄じゃないと思って、照れ隠しに宿題を持ち出したのかもしれない が、そのお陰で余計に風邪が悪化したような気がする。 (ったく、迷惑なヤツ……) 大体、梅干くらい、清四郎の家でも漬けているのだ。この大量の梅干を、家族に一体 どう説明すれば良いのか。 「は〜あ」 とりあえずは、この梅干を湯呑みに入れるべく、彼は壺を抱えてフラフラと台所へ向っ たのだった。 こら、悠理!って感じの話。ま、ガキだから、これくらい無責任なことはするでしょう。 BACK |