優しいあなた



 清四郎が本屋に行くというので、着いてきたものの、入り口で分かれた彼は一向に戻
って来ないし、悠理としては読みたい本など最初っからありゃしないしで、とりあえず漫
画雑誌を立ち読みして時間を潰していた。そのとき、

「あら、あなた……悠理ちゃん、悠理ちゃんじゃない?」

 突然、声を掛けられて、悠理は後ろを振り返った。
 そこには、一人の女性が立っていた。歳の頃は三十代後半といったところだろうか。ど
こかで会った覚えもあるような気がしたが、思い出せなかった。
「そうだけど……?」
 訝しげに言う悠理に、女性は小さく微笑んだ。
「もう、私のことなんて忘れちゃったかしら」
「あ……ごめんなさい、わかんないです」
「幼稚舎のときに、担任だった桂川茜よ」
 桂川茜……先生。悠理の脳裏に遥か昔の光景がフラッシュバックする。
「あ〜っ、茜先生かあ!」
「そうよ、思い出してくれたのね。嬉しいわ」
「うわー久しぶりだね、先生」
「悠理ちゃん、変わってないわ。すぐ分かったわよ」
「えー、ほんと?」
 きゃいきゃいと(一応)女同士で話に花を咲かせていると、カツカツといういかにも頭の
良さそうな靴音が聞えてきた。
「こんなところにいたのか」
 清四郎である。
「あれほど一階で待ってろと言ったのに、どうして二階にいるんだ」
「だって、退屈だったから〜」
「あちこち探し回る羽目になったじゃないですか」
「……ごめん」
「大体、おまえってヤツは、云々云々……」
 長い説教が始まりそうになったとき、桂川が「あらあ!」と歓声を上げた。
「え?」
 清四郎はビクッとして、桂川の方を見た。
「な、なんでしょう」
「もしかして、清四郎くん!?」
「……はい」
 頷きながら、彼は悠理の方をちらっと見た。この人、誰?そんな顔をしている。
「あの、失礼ですが、どちら様でしょうか」
「茜先生だよ」
「あかね先生?」
 悠理の言葉に、清四郎は眉をひそめている。どうやら覚えていないらしい。
「覚えてないのかよ、おまえ〜。失礼なヤツだな!」
 ここぞとばかりに乗っかる悠理を無視して、清四郎は桂川に向き合った。
「申し訳ありません。一体、どこでお会いしたんでしょうか」
「聖プレジデントの幼稚舎よ。二人は椿組だったわね」
「椿……組」
 その単語を聞いた途端、清四郎の頭の中を、走馬灯のように数々の思い出が駆け巡
った。その殆どは思い出したくなかったものである。
「うわーっ!」
 彼は思わず顔を手で覆った。一体、どれだけトラウマを負っているのか。
 桂川は心配そうな顔をしている。
「大丈夫、清四郎くん?」
「先生、気にしないでいいよ。こいつ、ちょっと変なんだよ」
「誰のせいだと思っているんだ!」
 思わず叫んでしまった清四郎。店内の客の視線が一斉に向けられる。
「……と、とにかく、ここは出た方が良さそうですね」
「それで、私のことは思い出してもらえたのかしら?」
 ニコニコと微笑む桂川に、清四郎も力なく笑みを返した。
「僕たちの担任だった桂川茜先生ですね。ようやく思い出しましたよ」
 本当は思い出したくなかった。


 本屋を出た三人は、その隣の喫茶店に入った。 
 窓際のテーブルまで行き、桂川を上座にして、その向いに清四郎と悠理は座った。
「それにしても、二人とも大きくなったわね〜」
「そりゃあ、そうだよ。だってもう十年以上経ってるんだもん」
「……」
 俯いて黙っている清四郎を、悠理は肘でどついた。
『おまえも何かしゃべれよ』
 という意図を込めたのだが、彼は知らん振りを決め込むつもりなのか、今度は窓の外
の方を向いてしまった。
 いつもは、ぺらぺらと如才なく話す人間なのに、今日の清四郎は何かが変だ。だが、
桂川は、その状態をごく自然なものだと思っているらしい。
「清四郎くんは相変わらず、おとなしいのね」
「ぶっ!」
 と、悠理はメロンソーダを噴出しそうになった。清四郎はといえば、「ええ、まあ……」な
んて、図々しくも肯定している。悠理としては黙っていられない。
「どこがおとなしいんだよ!」
 この男の普段の行状を見ていれば、誰が「おとなしい」などという評価を下せるだろう
か。目の前に立ちはだかっている者があれば、平然と笑顔で蹴散らしていくような人間
である。
「茜先生は、今のこいつを知らないから、そんなこと言うけどさ〜」
「あら、今の清四郎ちゃんは、あの頃とは違うの?」
 少し悪戯っぽい目で桂川は清四郎を見遣った。
「でも、今もとっても真面目そうだし、お利口そうな顔してるわ」

(お、お利口……)

 笑いを堪えるのに必死な悠理の隣で、清四郎は口元を小さく歪めた。
 彼女にとっては、園児はいくつになっても園児ということか。
「そうだな、確かに清四郎ちゃんは、お利口さんには違いないよな〜♪」
「悠理」
 ギロ、と横目で睨もうとしたが、目の前に恩師がいることに気が付き、清四郎はやめた。

(あとで覚えておけよ)

 彼がそう思ったことを、もちろん悠理は知らない。
「お勉強はできるし、先生の受けもいい!ほーんと、優等生の鏡なんだから……」
「まあ、そうなの」
 素直に喜んでいる桂川に、清四郎は何だか後ろめたい気持ちを抱いてしまった。彼
女が思うほど、自分は出来た学生ではない。
「清四郎、せっかくあたしが褒めてやってんだから、もっと喜べよな!」
「喜んでますよ。悠理から褒められて、あー嬉しいな」
「なんだよ、バカにして!」
「喜べって言ったのは悠理でしょ」
 二人の漫才のような遣り取りに、桂川は笑い声を上げた。 
「でも、先生は嬉しいわ。あんなに喧嘩ばっかりしてた二人が、今はこんなに仲良しな
んだもの」
「な、仲良しなんかじゃないやい!!」
「……(そんなに強く否定しなくてもいいのに)」
 顔を真っ赤にして言い募る悠理に、清四郎は複雑な気分になった。
「こいつとは、腐れ縁なんだよ!本当はそんな付き合いたくなんかないんだけどさー」
「ひ、ひどい言い草じゃないですか」
 悠理のあんまりな言いように、清四郎の声はらしくなく裏返ってしまった。
「僕たち、友達でしょう」
「友達なら、もっと優しくしたらどうなんだよ」
「これ以上ないというほど優しくしてますよ、僕は」
「どこがだ!」
「テスト前はいつも勉強を見てやってるし、追試になったらなったで、対策を講じてあげ
てるじゃないですか」
「余計なお世話なんだよ!!」
「余計なお世話?」
 と、呟いた清四郎の声は、彼自身驚くほどに冷たいものだった。
 こんな子供染みた言い合いで、本気になるなんて下らないとは分かっているし、悠理
の言うことだって、いつもの売り言葉に買い言葉だと知っている。
 しかし……『余計なお世話』ってのは、ないんじゃない!?
「分かりました。僕はもうこれから、悠理に『余計なお世話』はしないことにしますよ」
 清四郎は立ち上がり、桂川に頭を下げた。
「すみません、失礼します」
「あら、清四郎くん……」
 久しぶりにあった恩師に対して、失礼なことだとは分かっていたが、これ以上、悠理の
隣でのほほんと普通の顔をしていることに、清四郎は耐えられなかった。
 何か言いたげに見上げてくる悠理を無視して、彼は足早に店を出た。


「なんだよ、あいつ〜!」
 悠理はドン!とテーブルを叩いた。
「信じらんない!!茜先生がいるっていうのにさ」
「いいのよ、悠理ちゃん。私のことは」
 怒る悠理とは反対に、桂川は優しい笑みを浮かべている。 
「清四郎くん、きっと傷ついたのね」
「はあ?なんで」
 悠理は、桂川の言っている意味が分からなかった。あんなにバカにされて、傷つく
べきなのはこっちの方じゃないか?
「彼はいつも、あなたの勉強を見てあげてるの?」
「うん……あたしは嫌なんだけど」
「でも、そのお陰で、悠理ちゃんは得してることもあるのよね」
 確認するように顔を覗き込んでくる桂川から、悠理は思わず目を逸らしてしまった。
「得してることなんて、ないもん」
「本当に?」
「……」
 悠理が黙ると、桂川は「ふっ」と小さく息を吐いた。
「人の嫌がっていることなんて、本当は誰だってやりたくないものよ」
「あいつは、それが好きなの」
「そんなことないわ」
「茜先生にはわかんないよ……」
 清四郎の、叱責やバカにするような言動には多分に冗談が含まれていると分かって
はいるのだが、それは時々深く胸を抉る。
 確かに自分はバカではあるが、事実を言われたからといって、傷つかないわけじゃな
い。むしろ事実だからこそ、耐え難い。
「あのヤロウ、あたしのこと苛めて楽しんでるんだ」
 人の気持ちも知らないで。
「言わないでおこうと思ってたんだけど」
 段々、悠理の胸が痛くなってきたとき、桂川が口を開いた。
「清四郎くんは悠理ちゃんのこと、ずーっと心配していたのよ」
「……なにそれ」   
「悠理ちゃんて……昔から、お勉強が苦手だったじゃない?」
「うん」
 悠理の頭のできは、幼稚舎の頃から変わっていない。
「それに、お転婆だったし、よく怪我もしてたわよね」
「まーねー」
「あなたが怪我したことを知らせてくれるのは、決まって清四郎くんだったのよ」
「う……ウソ!!」
 悠理は目を見開いた。

(なんだなんだ、その情報はー!?)

 頭が混乱する。
「ウソじゃないわ。悠理ちゃんが何か忘れ物をしたときだって、そっと差し出してあげて
たじゃない」
「そ、そういえば、そんなこともあったかな?」
 桂川に言われて、おぼろげではあったが昔の記憶が甦ってくる。
「あなたが脱ぎ散らかした靴を、揃えてあげたりもしてたわね〜」

(清四郎、なにやってんのぉーー!?)

 そんなに世話を焼いてくれていたなんて、全然知らなかった。
 桂川はどこかうっとりと、天井に目をやっている。
「私は、そんな二人の将来が密かに気になって仕方がなかったんだけど……」
「茜先生!」
 と、悠理は立ち上がった。
「ごめんなさい!!あたし、ちょっと用事があるから帰ります!」
 ダーッと悠理は店を飛び出した。
「あらあら」
 残された桂川は、同じく残された伝票を手に取った。ひらひらとしたそれを眺めながら
自然と笑みが浮かんでくる。
「いいわねー、若いって」
 お似合いの二人だと、教員たちに密かに噂されていた悠理と清四郎。そんな昔を思
い出した。


 喫茶店を出た悠理は、逸る気持ちのままに、歩道を駆けた。
 長身で、姿勢の大変よろしい詰襟の学生服。
 清四郎が今現在、どんな道を辿っているのかなんて、もちろん知らないが、そんなこと
を考えている余裕はなかった。

 ――清四郎くん、きっと傷ついたのね。

 桂川の言葉が、ふと浮かぶ。
 あの男が傷ついたりするか、と思ったりもするが、清四郎だって人間だ。傷つくこともあ
るかもしれない。
 それに、と悠理は我知らず唇を噛んだ。

(あたし……嬉しい!!)

 散々苛められて、軽んじられてばかりいると恨んでいた清四郎が、人知れず悠理のこ
とを気に掛けてくれていたことが、彼女にとっては泣きたくなるほど感動的だった。
 バカだのアホだの言われたことなんて、全てチャラになってしまう。
 早く彼に会って、この思いを伝えたい。酷い言葉を謝りたい。
 逸る気持ちのままに、悠理は町を駆け抜けた。
 すると……小さな奇跡が起きた。横手の文房具店から清四郎が出てきたのである。
「清四郎!!」
 声の限りに叫ぶと、彼はこちらを振り向いた。ぎょっと肩を揺らす。
「ゆ、ゆう」
 と清四郎は何かを言いかけたが、なぜかそのまま悠理に背を向けてスッタカターと歩
いて行ってしまう。
 悠理は慌てて、その後を追いかけた。
「ちょっと待ってよー!」
「なぜです」
 清四郎はすげない。
「僕のことなんか、どうせ、お節介でうざったいヤツだと思ってるんでしょ」
「……お、思ってないってば!」
 そんな会話を交わす間にも、コンパスに差がある二人の距離はどんどん開いていく。
「せ、清四郎〜」
 段々、悠理は泣きたくなってきた。こんなに必死で追い縋っているのに、男は待ってく
れないし、ぜーはーぜーはー息を切らしているのも、なんだか惨めだ。
 とうとう悠理はその場にへたりこんだ。最後の力を振り絞って叫ぶ。

「幼稚舎のときに、あたしの靴揃えてくれてたんだってーー!?」 

 すると、ぴたりと清四郎の足が止まった。後ろを振り向き状況を認識すると、彼はもの
すごい勢いで駆け寄ってきた。
「立て!!」
 悠理の腕を掴んで、引き上げる。くすくすと道行く人々が笑っていることにも気付かず
悠理は反射的に、清四郎の首根っこに抱きついてしまった。
「やっと掴まえた!!」
 彼の腕が強張る。
「こ、こら」
 引き剥がそうとする力に抵抗するように、悠理は更に強くしがみついた。
「ごめんね、清四郎」
「……」
「余計なお世話だなんて、本気で言ったわけじゃないよ」
「……別に……」  
 清四郎の口調にはいつもの切れがない。悠理は少し体を離し、彼の顔を見つめた。
常とはかけ離れた、頼りなげな表情がそこにはあった。
 悠理の胸が、一瞬針で刺されたように疼く。

(あれ?今のなんだろ)

 なんだか、妙に清四郎が可愛く見えてきた。この男が珍しく同級生に思え……いや、
年下のようにさえ思える。   
「茜先生から聞いたんだ。おまえが、あたしの怪我を先生に教えてくれてたこととか」
「な、なんだってぇ!」
 清四郎の声はわなないている。幼い頃の行動を悠理に知られたことがよっぽどショッ
クらしい。
 彼は赤くなった顔を思いっきり背けた。
「これだから嫌なんだ、昔の知り合いに会うのは!」
「嫌がることないじゃん!」
 悠理は背けられた清四郎の顔を元の位置に戻した。視線が深い色の瞳と正面衝突
する。
「顔が近いですよ」 
「清四郎、今までありがとう」
「らしくないこと言わないでください」
「違うの!あたし、ずっとおまえのこと誤解してたから……謝りたいんだ」
「分かった、もう分かったから」
 少し投げ遣りに言って、清四郎は抱きつく悠理の体を剥がした。(だが、その動作は
酷く優しいものだった)
 悠理が見上げていると、その視線に気付いたのか、彼はふいっと背を向けた。
「人前で抱きつくのはやめてくれ」
「今更、何言ってんの」 
「……フン」
 清四郎はそのまま歩き出す。また置いていかれるかと悠理は思ったが、あにはからん
や、今度はそんなことはなかった。
 悠理が着いてこられるように、清四郎は、ちゃんと歩くテンポを緩めていたのである。

(それで、あたしが着いていかなかったら、どうするんだろ)

 そんな意地悪なことも考えたが、結局、悠理は彼の後を追った。
 なんだか、今日は妙に離れ難かったのだ。




 
 

 
オリキャラって、なんか照れるw
 それにしても、清四郎のキャラが意味不明になっちゃった。
 悠理にいじめられてたくせに、色々、世話を焼いていたなんて、変なヤツだぜ…。




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