秋の終わりの四重奏 揺れる電車の窓から、まばゆい陽が差し込んでいる。 四人はボックス席に座っていた。 「なんで、お前らがついてくるわけ」 「いーじゃないですか。楽しくやりましょうよ、ね」 ニコニコと笑う清四郎に、魅録は深々とため息をついた。目の前には、野梨子にべっ たりと引っ付く悠理の姿。 (てめ、それは俺の野梨子だぞ!!) ふんがー、と悠理に掴みかかりそうになるのを、魅録は先程から必死に堪えていた。 今日は、魅録と野梨子の記念すべき初デート。なのに、邪魔者が二人くっついてい る。 清四郎の目的は明らかに自分たちの監視である。さすがにラブラブカップルと、 部外者一人では、居心地が悪いと思ったのか、悠理を誑かして、連れてきた。 やれやれと魅録が肩を落としていると、清四郎は欠伸をした。 「あー、眠い」 「じゃあ、来るなよ……」 恨みのこもった声で低く呟いたとき、斜め向かいに座る悠理がびたっ、と窓に張り付 いた。 「わあ、海だ!!」 穏やかな海面がキラキラと光を反射している。 「まあ、綺麗ですわね」 野梨子はもっと近くで海を見たいのか、少し身を乗り出した。 (はっ!野梨子、窓際に行きたいのか!?) 魅録はすぐにでも席を替わってやりたかったのだが、生憎、彼は通路側で、窓際は清 四郎が陣取っていた。 結局、魅録は清四郎の足をガンガンと蹴った。 『……おい!』 『なんですか』 『野梨子と替わってやれよ』 『はあ?何を』 この鈍感男め……。一層、蹴る足に力をいれると、逆に脇腹に肘鉄を食らわされてし まい、魅録は呻いた。 「うぐ」 ぐぐぐ、と俯いた。こんな醜態、野梨子に知られるわけにはいかん! 「あら魅録。お腹を押さえて、どうなさったの」 野梨子の優しい声が聞えて、魅録は「いや、なんでもないさ」と顔を上げようとしたの だが、憎い男に遮られた。 「気にすることはありませんよ、野梨子。きっとただの下痢でしょう」 「げ、下痢って!!ちげーよ!!」 「え?だってさっき僕が魅録の家に迎えに行ったときも、トイレから中々出てこなかった じゃないですか」 「な、な……」 それは事実だった。ので、正直者の魅録は言葉に詰まってしまった。そこへ更なる追 い討ちをかけるような悠理の言葉。 「へー、魅録って下痢なんだァ。何か変なもんでも食ったの?」 車内に響き渡るようなバカでかい声で言われて、魅録は全身を掻き毟りたくなるほど の羞恥に襲われた。 (ふぐぉおあ〜〜!!くそったれ、どーしてこいつらにデートすること教えちまったんだ あああ) 後悔しても、後の祭りである。覆水盆に返らず。 こんなカッコ悪い自分に、野梨子は愛想を尽かさないだろうか。魅録がそっと窺うと、 彼女はくすくすと笑っていた。 (げえ!!) 笑われた、笑われた……。野梨子に笑われちゃったヨ!! 何週間も前から計画を立てていた、このデート。カッコ良い自分を演出するために色 々作戦も考えていた。プロジェクトNHK(のりこにほめられてきすする)なるものの企画 書まで作成したってえのに……。 「あ、震えてる」 「魅録、なにワナワナしてるんだよ〜」 無神経な恋愛音痴二人組に、つんつんと突かれて、思わず魅録は落涙した。 さて、何だかんだありつつ、四人は海岸沿いの駅に降り立った。 魅録はサササと野梨子の隣に歩いていった。その素早さ、ゴキ○リの如し。 「野梨子、疲れてないか?」 「いいえ。この海を見たら、疲れなんて吹き飛んでしまいましたわ」 そう言う、野梨子の笑顔の美しいことと言ったら!魅録はくらくらと眩暈を起しそうにな りつつ、言おう言おうと思っていた台詞を口にした。 「本当だよな。この海の穏やかさ、まるで……の、の、のり」 「魅録、あそこに薬局があるから、下痢止めス○ッパ買ってきたらどうですか」 ――のりこのようだ。……そう言おうと思っていたのに。 「清四郎、てんめえええ」 魅録が一発食らわせてやろうと、右手を上げたとき、すでに清四郎の姿は目の前から 消えていた。 「あれっ、あんにゃろ、どこ行った!」 振り上げた拳をどこへやったものかと、魅録が周囲を見回すと、野梨子が土手の下を 指差した。 「清四郎と悠理なら、浜辺に下りていきましたわよ」 「い、いつのまに」 魅録はドダダダダ、と土手を駆け下りた。野梨子のことはすっかり忘れていた。 「てめー、待て!このヤロウ!!」 「あら、待ってくださいな!」 瞬く間に、俊足魅録の背中は小さくなっていく。野梨子はその子供っぽい後ろ姿に笑 みを浮かべた。 (可愛い……なんて言ったら失礼かしら) クールで、男らしくて、ちょっと不良っぽい彼の、あんな素顔を知っているのは、きっと 私だけ……じゃなかった。 (そうだわ。悠理だって、清四郎だって……) 野梨子の胸に小さな曇りが生じた。自分は彼の恋人なのに、きっとあの二人の方が 魅録のことをよく知っているということに気がついたから。 中学の頃から付き合いのある悠理はもちろんだが、清四郎とは異常に仲が良い。い っつも一緒にいるし、なんやかやとコソコソ話をしているし、一部の女子から、妖しい目 で見られているのに、彼らは気付いているのだろうか? 悶々としていると、浜辺から「おーい」という伸びやかな声が聞えた。 魅録と悠理がぶんぶんとこちらに向って手を振っていた。 運動音痴の野梨子がよたよたと土手を降りていくと、浜辺の魅録が颯爽と駆け上がっ てきた。 「ほら」 と、手を差し出してくれるので、野梨子は素直に手を取った。 『!』 二人は同時に頬を染めた。手を握るのにも、まだ慣れていない。 「あ、危ないからさ、ゆっくり行こうぜ」 「……はい」 照れたような魅録の笑顔が眩しい。自分も彼のように素敵な顔が出来ているだろうか? 雑草を踏み踏み、慎重に足を踏み出すと、浜辺に佇んでいる悠理と清四郎の姿が目 に入ってきた。 ファーのついた赤いブルゾンに、ビンテージのジーンズ姿の悠理と、黒いロングコート を羽織った清四郎の組み合わせは、何だかちぐはぐな印象を与える。一体、どういう間 柄の二人なんだ?そんな疑問を抱かせる。 そんな二人が仲良さげに、浜辺に打ち捨てられている昆布をしげしげと眺めているの だから、ますます変てこな光景に見えた。 悠理は砂に塗れた昆布を、落ちていた棒切れで引っ掛けて、目の前まで持ち上げた。 「この昆布、食べられるのかなあ」 「食べてみればいいじゃないですか」 清四郎は無責任なことを言った。 「案外、おいしいかも」 「どうやって?」 「海水で茹でてみたら……」 「まずそー」 興味をそがれたらしく、悠理は昆布をぽいと放り投げた。 「ウニでも落ちてたらいいのにぃ」 「潜ってとってきたら?」 清四郎はまた無責任なことを言った。 「悠理なら、それくらい朝飯前でしょう」 さすがの彼女も、顔を歪めた。 「あ、アホ!こんな冬の海で泳げるか!!」 「まだ秋ですよ」 「そうなの?こんなに寒いのに」 「暦の上ではね。……今年は冷夏だったし」 「ふーん……」 悠理は清四郎を見上げた。すると、今度は彼が自分を見下ろしてくる。 (好きだな) と、悠理は思った。こういうふとしたときに一瞬流れる空気が好き。 清四郎は不思議だ。自分からは一番、遠くかけ離れている人種なのに、誰より心は 近いところにある気がする。 (時々、仏様みたいに思えるときもあるし……) 誰からも見捨てられても、きっとコイツだけはあたしの傍にいてくれる。手ひどく罵りな がらも、決して離れていきはしない。そんな確信が何故かあった。 「なんですか。人の顔をじろじろ見て」 「なんでもない」 清四郎は「うん?」という顔をすると、また海に視線を戻した。 再び悠理が見上げると、今度は見下ろしてこなかった。ただ、決まり悪そうに口元だ けで笑っている。 彼の目は真っ直ぐに海へと向けられていた。一体、なにをそんなに見詰めているの だろう。 「……野梨子が心配だ」 不意に清四郎が言った。悠理は首を傾げた。 「どうして?」 「男と付き合うのは初めてだから」 「魅録だから心配いらないだろ」 「そればっかりは」 と、清四郎は足元の小石を拾った。 「わからないな」 「……」 綺麗な放物線を描いて、石は波に飲み込まれていった。 悠理はぽつりと呟いた。 「……あたしも、男と付き合ったことないよ」 「でしょうねえ。知ってますよ」 波音に掻き消されそうに小さな声だったのに、清四郎には聞えていたらしい。 「もし、あたしが誰かと付き合うようになったら、おんなじように心配してくれる?」 「悠理が?」 「そ、あたしが」 「……」 清四郎の顔に、一瞬、物凄く真剣な色が過ぎった。が、すぐにそれは冷静な仮面に 隠されてしまった。 「……悠理より、相手の方が心配ですね」 「なにそれぇ〜」 不満気な声を上げると、清四郎は真顔のままで、悠理の後頭部をこつんと小突いた。 「けど、一番、心配なのはお前が嫁に行けるかどうか……」 そこまで言って、清四郎は後ろを振り返った。 魅録と野梨子が手を繋いで、こちらへ歩いてきていた。 密かに清四郎は口を手で押さえた。危なかった。 あんな婚約騒動を起しておいて、どの口で、お前が嫁に行けるか心配だ、なんて言う つもりなのだろう。自分が嫌になる。 悠理の表情が気になって、彼女の顔を伺おうとしたとき、魅録がいきなり駿馬のごとく 走り出して、掴みかかってきた。 「てめ、清四郎!お前、さっきから俺たちの邪魔ばっかしやがって!!」 「わっ!……と」 魅録の拳を紙一重で交わして、清四郎は野梨子の後ろへ回った。 「野梨子、君の彼氏、なんとかしてくれません?」 「まあ、彼氏だなんて」 俯く野梨子の項がポッ、と赤くなるのを見て、清四郎は何となく気分が悪くなる自分を 自覚した。 (……どうせ、シスコンだよ……) うじうじした気持ちを振り切るように、清四郎は悠理の背中を遠くの堤防の方へ押した。 「悠理、向こうへ行きましょうか」 「へ」 「この人たちは二人っきりになりたいそうです」 「あ、そうなんだ。もっと早くに言ってくれたら良かったのにィ」 悠理があっけらかんと言うと、野梨子と魅録はもじもじとした。 「まあ、そんな……」 「お前らが勝手についてきたくせによ」 「はいはい。悪かったですね。それじゃあ、四時まで自由時間でいいですか?」 「ああ。分かった」 ぼそぼそと呟く魅録の口が尖っているのを見て、清四郎は可笑しくなった。 そうして安堵する。良かった。やっぱり自分はこの二人の恋が成就したことを喜んで いる。 なんやかやと煩い二人がいなくなって、魅録と野梨子は砂浜をゆっくり歩いていた。 野梨子の歩幅に合わせるのが、まだ少し難しいけど、きっといつか慣れるはず。アイツ よりもずっとずっと、ふさわしくなれるはず……。 ぶつぶつ呟いていると、野梨子がふと立ち止まった。海風に、黒髪が揺れている。 「ねえ、魅録」 「なんだ」 「清四郎は、清四郎ですわよ」 「……」 「魅録は、魅録」 「うん」 「あの人の代わりになろうとなんて、しなくていいんですのよ」 「野梨子」 ……知ってたのか、俺が悩んでるってこと。 魅録が黙ると、野梨子は言った。 「私は……ありのままの魅録が好きだから」 「!」 決して大きな声ではないのに、彼女の声は波音に掻き消されない。 どうして、こんなに自分の心を揺さぶるのだろう。 じぃーん、と感動していると、野梨子はぐっと右手を握り締めた。 「だから……もっと自信を持って欲しいんですの!」 「は?」 「いつもいつも、清四郎に邪魔されてばかりじゃありませんの!少しは言い返してくださ いな!」 「うッ」 「さっきも、下痢だとかなんだとか、言われ放題でしたでしょ!」 えーっ、今頃下痢のこと掘り返すんだ……。魅録はあたふたした。 「で、でも本当のことだったしよォ……」 「黙らっしゃい!」 「は、ハイッ!」 ぴしゃりと一喝されて、魅録は縮こまった。 「もう、私、恥ずかしいったらなかったですわ。あんな電車の中で、恋人が下痢だってこ と大声で喚かれて」 「す、スミマセン……」 「いっつも、コーラとかサイダーとか水分ばかり摂ってるから、下痢になるんですのよ!」 「そ、そのとおりだ」 さっきから、押されっぱなしの魅録。 「俺、すぐ喉が乾いちゃってさァ」 「そんなの言い訳になりませんわよッ」 「仰るとおりで……」 うなだれながら、何故清四郎があれほど口が達者になったのか、理由が分かったよう な気がした魅録だった。 野梨子と魅録が仲を深めている頃、悠理と清四郎の仲は何にも深まっていなかった。 単に、二人揃って、ぼけ〜としていた。 「今頃、あいつらチューとかしてんのかなあ」 「……」 「魅録が押し倒しちゃったりして」 ばきゃっ、と清四郎は手慰みにしていた小枝を折り曲げた。 「うるさいぞ、悠理」 「だってえ、暇なんだもん」 「暇なら、昼寝でもしてなさいッ!」 なんでか、ぷんすかしている清四郎に、悠理は「へ〜い」と言った。 素直に砂浜に仰向けに転がると、カラスが上空を旋回している。 「あのカラス、あたしたちを狙ってる」 「は?」 「あたしたちを食おうとしてる」 「そうですか」 そーですか。 漫画のモノローグのように、清四郎の言葉が宙に浮かんだ。 悠理はいつの間にか目を閉じていた。 気が付くと、ピンクと黒髪が悠理を上から覗き込んでいた。 「おい、いい加減に起きろよ」 「もう帰りますわよ」 「はっ!」 ガバ、と悠理は上体を起こした。きょろきょろと辺りを見回すと、すっかり日は暮れて夕 闇が迫ってきていた。 「うわー、あたしすっごい寝てた?」 「すっごい寝てました」 悠理の背についた砂を払いながら、清四郎は笑った。 「すっごい涎垂らして」 「え゛」 慌てて悠理が口元に手をやると、しらっとした顔で清四郎は「嘘です」と言った。 「あんまり無邪気な顔して寝てるんで、起せなかったですよ」 「何だかんだ言って、清四郎は悠理に甘いよな」 「子供と老人には優しい主義なもんで」 「あー、そういうこと」 笑い合う清四郎と魅録を、野梨子が世にも優しい顔で見詰めている。そんな三人を 眺めながら、悠理はとても嬉しくなった。 (あ、いいかも。こういうの……) 今まで、自分の中で渦巻いていた何かが、雲散霧消するのを、悠理は感じていた。 魅録と野梨子が付き合うようになってから、密かに覚え始めた寂しさと違和感が、波 音と、夕暮れ、三人の笑い声に溶けていく。 「悠理、なにボーッとしてんだよ」 魅録の声に、悠理はハッと我に返った。 「あ、いや、そのぉ」 そそくさと砂の上から立ち上がると、清四郎の失礼な言葉が容赦なく飛んでくる。 「そうやって、口を開けてると、ますます可哀想な子に見えますよ」 「誰が、可哀想な子だ!!」 「ふふっ、取り合えず、そのだらしない髪型を何とかしたらいかがですの?」 「うッ」 野梨子も本当に容赦ない。 砂に塗れた髪を押さえつけながら、それでも、悠理は笑顔が浮かんでくるのを止めら れなかった。 BACK |