愛憎



 本日の夕飯当番であるティトレイが、カレーの煮える鍋を覗き込んでいると、ふと背後
から影が差した。香辛料の匂いに混じって、鼻を掠めた微かな甘い香りで、彼には後ろ
に立つ人物が誰か分かる。
「だ〜れだ!?」
「……それ、普通、私が言うんじゃない?」
「分かった、ヒルダだな!」
 振り返ると、果たして黒髪の彼女が立っていた。その姿を目にするだけで、ニコニコと
笑みが浮かんできてしまう自分を、ティトレイは我ながらオメデタイ男だと思う。
「なんだよ、メシの時間が待ちきれなくて、来たのか?」
「ち、違うわよ」
 ヒルダは、心外だと言いたげに眉をひそめた。だが、違うと言いながら、彼女はティトレ
イの横から鍋の中をまじまじと覗いている。
「その割りには、随分とカレーに興味津々みたいだけどなぁ」
「ねえ、ティトレイ……」
 鍋から目を離さないままで、ヒルダが言う。
「今日も、やっぱり蜂蜜入りの激甘カレーなの?」
「そうに決まって……おまえ、嫌なのか?」
 ティトレイはハッと顔を強張らせた。一瞬、ヒルダがものすごい形相をしたのが目に入
ってしまった。
 ショックを受けているティトレイに気が付いたらしいヒルダは、取り繕うように「ち、違うの
よ」と、手を振った。
「別に、あんたのカレーが嫌なわけじゃなくて、ただ……たまには中辛カレーも食べた
いな〜って……」
「……なんだよ……遠まわしな言い方すんじゃねえよ!!おれ(のカレー)に飽きたん
だろ!?嫌気がさしてるんだろ!?それならそうと、はっきりそう言えよ!!」
 自慢のカレーを拒否された悔しさのあまり、ティトレイが、ガーッとがなり立てると、ヒル
ダは口に手を当てて、顔を歪めた。
「な……なによ!……そんなに大きな声出さなくてもいいじゃない……っ」
 最後の方は、弱々しく掠れるヒルダの声に、ティトレイは「うっ」と情けなく怯んだ。
「わ、悪かった」
「聞えないわ」
 ヒルダは、ぷいとそっぽを向いた。
「私、もうティトレイのこと信じられない……女に対して、あんな風に怒鳴る男だとは思わ
なかったもの……」
「だから、謝ってるだろ」
「触らないでよッ!!!」  
「ひえっ!!」
 ヒルダの肩に伸ばしかけた手を、ティトレイは慌てて引っ込めた。
「ど、どうしたら許してくれるんだよ!」
「知らないわよ、そんなこと!!あっち行って!!見損なったわ、顔も見たくない!!」
 ビュンビュンとカードが、まるでナイフのように飛んでくる。命の危険を感じたティトレイ
は、弁解を諦め、その場から一目散に逃げ出した。


 十分ほど経った頃、ヒルダは鍋のある焚き火から、皆のいるところへ戻ってきた。何故
か足取りが軽く見えるのは、気のせいか。
「あのさ、さっきは……」
「カレー、見に行った方がいいんじゃない」
 言い訳をしようとしたティトレイに、ヒルダは冷たく、焚き火の方を指差した。
「そ、そうだな」
 そう言う彼の返事も聞かぬうちに、彼女はさっさと離れて行ってしまう。

(ヒルダ〜、戻ってきてくれよォォ〜!!)

 跪いて懇願したい気持ちのティトレイだったが、さすがの彼でもそこまではできない。
仕方なく、鍋へ向ったのである。


「……ん?」
 蓋を開けて、中のカレーを見た瞬間、ティトレイは違和感を覚えた。

(おれが作るカレーって、いつもこんな色してたっけか)

 ぐつぐつ煮立つカレーは、妙に赤味を帯びている。
 普段の彼なら、ここで味見をするところだが、今日の彼は一味違う。己の落ち度のせ
いで、惚れた女性から手ひどく罵られ、拒まれ……要するに、精神的に多大なダメー
ジを受けていた。
「ふん、別にカレーなんて、どんな色でも同じだよな」
 カレーなんて、カレーなんて、カレーなんて……。カレー、おまえのせいで、おれはヒ
ルダに嫌われた。カレーよ、恨むぞ。ティトレイは心中でカレーへの呪詛を吐きながら、
それでも手馴れた所作で食卓のセッティングをした。
    

 食卓に並んだ、六皿のカレーライス。
 最初に訝しげな声を出したのは、ユージーンだった。
「……今日はいつもと色が違うな」
「うーん、確かに。ティトレイ、レシピ変えたの?」
 マオが聞いてくるのに対して、ティトレイは力なく首を振った。
「いんや、変えてねーけど……」
「なんだか元気ないですね、ティトレイさん」
 心配するアニーに、ヴェイグは「気にするな」と言った。
「ティトレイの場合、元気がない方が、おれたちにとっては都合がいい……」
「何気にヒドイよネ、ヴェイグってwww」
「まあ、とにかく……せっかくティトレイが作ってくれたんだ。冷めないうちに食べよう」
 一家のお父さんらしく提案するユージーンに従い、六人は「いただきまーす」とカレー
に手をつけた。

 パクパク、モグモグモグ……。

「!!」
 数秒経ったところで、ティトレイが突然立ち上がった。ダダーーッ、と無言でどこかへ走
り去っていく。
「ど、どうしたのかナ、ティトレイ」
「わからん……しかし、今日のカレーはちょっと辛いな」
 だがウマイ、とスプーンを口に運ぶユージーンに、アニーも頷いた。
「本当、辛いけど美味しいです」
「美味い……」
 ヴェイグも呟く。その横で、ヒルダは黙々と食べている。
 やがて、ふらふらとした足取りで、ティトレイが戻ってきた。かと思うと、憔悴したような
顔とは裏腹に、激しくテーブルを拳で叩いた。
「ヒルダっ!!おまえ、カレーに何か入れたな!?」
「……」
 頬張っていたカレーを飲み込むと、ヒルダは悪びれた様子もなく、「入れたわよ」と言っ
た。
「何を入れたんだッ!!」
「……唐辛子」
「と、唐辛子だと!?」
 ティトレイの声が情けなく引っ繰り返った。
「おまえ、唐辛子なんか入れたのかよ!!」
「入れたって言っても、ほんの少しよ。ちょっとピリッとするくらいじゃない」
「ば、バカっ!!おれはな〜」
「でも……美味しかったヨ」
 ティトレイが何かを言いかけたところで、マオが割って入ってきた。
「いつもの甘いカレーも美味しいけど、今日のも美味しかったよネ、みんな?」
 マオの言葉に、皆頷く。だが、ティトレイ一人が苦い顔をしている。それを見たヴェイグ
はぼそりと呟いた。
「おまえ……もしかして、辛いものがダメなのか?」
「ぎく」
「さっきは、カレーを吐きに行ったのか?」
「……」
 否定しないところを見ると、どうやら当たっているらしい。
「……ぷ!」
「うふふ……」
 マオとアニーは噴出した。ユージーンも笑っているようだ。(分かりづらいが)
「おまえら、笑ってんじゃねえよ!」
「ティトレイって、この程度の辛さでもダメなんだ〜、お子様だネ!」
「るせえ!ほっとけよ!!」 
 ティトレイはムッとした顔で、自分の皿を片付け始めた。
「くそ、このカレーじゃ食えないっつうの」
「あの、あたし、キュウリの糠漬け作ってるんです。良かったら、それでライスを食べてく
ださい」 
 アニーの言葉に、ティトレイは「サンキュー、そうするわ」と顔を輝かせた。
「ていうか、いつの間に糠漬けなんか漬けてたの、アニーwww」
「なんとなく糠床の匂いがするとは思っていたが……」
「ふむ、アニーも成長したものだ」
 新しくライスを皿によそっているティトレイに、ヒルダはためらいつつ声を掛けた。 
「ティトレイ……」
「なんだよ」
「ごめんね。あんたがそんなに辛いものが苦手だと思わなかったから……」
「……」 
 ふいっ、とティトレイはヒルダから顔を背けた。不機嫌そうな横顔が、それ以上声を掛
けられるのを拒んでいた。
 彼女は小さくため息をつくことしかできなかった。


 その夜、ヒルダは中々寝付かれなかった。
 バカなことをした……でも、どうしても中辛カレーが食べたかった……それに、あんな
の辛いうちに入らないわ……でも、ティトレイには悪かった……。
 そんな思いが、ぐるぐると頭の中を巡る。
「はあっ」
 ヒルダは寝床から身を起した。冷えた夜気に触れれば、少しは頭も冷えるかもしれな
い。そう考えて、彼女はアニーを起さないように、そっとテントから外へ出た。
 外では、ティトレイが焚き火の番をしていた。何を考えているのか、火の傍に無言で、
じっと立っている。

(まあ、一人のときもベラベラ喋ってたら、怖いわよね……)

 ヒルダは彼の背後にそっと歩み寄った。
「お疲れさま」
「なんだよ」
 いきなり声を掛けたから驚くかと思ったが、ティトレイはそんな素振りを全く見せなかっ
た。どうやら、ヒルダがテントから出てきたことに気が付いていたらしい。
「まだ、怒ってるの?」
「……怒ってるよ」
「私が、悪かったわよ」
「聞えねえな」
「もう……」  
 ヒルダはティトレイの背中に、自身の背中を合わせるようにして凭れかかった。
「な、なにやってんだよ……!」
「触るな!って言わないの?」 
「……」
「見損なったぜ、顔も見たくねえ!!って言っていいのに」
 ヒルダは俯いた。冗談ではすまされないような切れ味の言葉なことに、今更ながら気
が付いた。
「……おれ、あのとき傷ついたんだけど、マジで」
「ごめんなさい」
「胸が抉られるとは、このことかと思ったぜ」
「本当に悪かったわ」
「カレーのために、おれを騙すなんて」
「許して」
「許さねえ」
「じゃあ、どうすればいいのよ……」
 寄り掛かるのをやめて、ヒルダが背中を離すと、「うわ」と、ティトレイはよろけた。焚き火
に足を突っ込みそうになり、慌てて離れている。
「危ないだろーが!!」 
「そんな火の傍に立ってるのが悪いんだわ」
 ここに来てようやく、二人の目がぶつかった。ぱちぱちと火の爆ぜる音が、やけに耳
につく。
「ふ、ふん……」
 ティトレイは地面に敷いた布の上に腰をおろした。
「もう寝ろよ」
「イヤ」
「なんでだよ」
「まだ寝れないわ」
「じゃあ、子守唄でも歌ってやろうか!?」
「歌って」
「……歌えるわけねえだろ、おれは音痴だからな」
 つまらなそうに言うと、彼は立てた膝を抱えて、顔を埋めた。ヒルダはその後ろに膝を
つくと、自分よりも幾分広い背中に縋りついた。ぎくりとその背が強張るのが分かる。
「そんな、拗ねないでよ」
「別に拗ねてないし」
「嘘」
 ヒルダはティトレイの肩のあたりに、頬をすり寄せた。この半分子供みたいな男の機嫌
を回復させるには、どうしたらいいのかが、わからない。
「ティトレイ……」
 やるせなく名前を呟く。すると、彼がこちらを振り向いた。普段は見せない複雑な感情の
色が、ブラウンの瞳を過ぎる。どちらからともなく顔を近づけ、二人の唇は触れ合った。口
付けが深くなる前に、ヒルダが顔を離すと、ティトレイの不服そうな表情が目に入ってきて、
彼女は可笑しくなった。
「……許してくれたの?」
「仕方ないから……許してやるよ!ったく!!」
「ありがとう」
 そう言ってヒルダが微笑むと、ティトレイは「はあ〜っ」と、曲げた足を伸ばして項垂れ
た。耳が赤く染まっている。
「どうして、おれってこうなの」
「なに?」
「なんか、上手く丸め込まれたような気がする……」
「どういう意味よ」
 ヒルダの目が吊り上がるのを見て取ったティトレイは、慌てた様子で手を振った。
「待った!もう喧嘩は無しにしようぜ」
「そうね、そうしましょう」
 と、ヒルダはティトレイの隣に腰を下ろした。夜空を見上げると、無数の星が煌めいて
いる。恋人たちにとっては、なんという最高のシチュエーションであろうか。
「見て、今日は空がとても澄んでるわ」
「ん……」
 空を示すヒルダの指を追って、ティトレイも顔を上に向けた。
「……」
「なにか感想はないの?」
「やっぱり、カレーは甘口に限るよな〜」
 ヒルダはぽかんと口を開けた。この男、いきなり何を言うのだ。
「ああもう、きゅうりの糠漬けとライスじゃ、満足度が足りないッ」 
「あんたねー、この星空を前にして、もう少し他に言うことあるんじゃない?」
「他にって、なんだよ」
 口を尖らせるティトレイ。ヒルダは、子供に言い聞かせるように、ゆっくり言った。
「例えば……星が綺麗だとか、おれはちっぽけな存在だとか」
「???」
 ティトレイは、本気で不思議そうな表情を浮かべている。それを見たヒルダは「ダメだこ
りゃ」と、彼にムードを期待するのを諦めた。
「ティトレイと私は、カレーの話をするのが最良ね、きっと……」
 ヒルダの呟きに、ティトレイは拳を固く握った。
「言っておくけどな!カレーに関しちゃ、おれは一家言あるぞ!!」
「変なことで、いばらないでもらえる?」
「変じゃねーだろ、別に!」
「いやーっ、ツバ飛ばさないでよ!」
「真面目に話してりゃ、ツバくらい飛ぶっつうの!!」
「そんなの、あんただけよ!」

 ――無事、仲直りした二人の愛の応酬は、夜明けまで途切れることはなかったそうな。




 
 

 
これは一体、いつの話なんだろうか。再誕の旅の頃かな。
 そういや、書き終わってから気が付いたけど、クレアがいない!!


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