愛想 (……から始まる二人のエトセトラ)



 旅の途中、立ち寄った街で、道具を買い求めていたとき。ティトレイは、マオが、若い
男の店員に話しかけているヒルダを、じーっと見ていることに気が付いた。
 彼女が店員と話しながら、棚を見て回る間中、ずっと後ろやら、斜め前やらから、マオ
は飽きる様子もなく、ヒルダの姿を見ているのである。
 ティトレイはマオの袖を掴んで、店の隅まで引っ張っていった。
「おい、マオ」
「なーに?」
「さっきから、どうしてそんなにヒルダのことを見てるんだよ?」
「んー……」
 と、マオは首を傾げた。
「別に大した理由はないんだけど、なんか気になるんだよネ」
「なにが」
「ヒルダって、ボクたち以外には愛想良いんだ〜と思ってさ」
「……そうか?」
「そうだよ、ティトレイも見てなヨ」
 マオに言われるままに、ティトレイも密かにヒルダを目で追った。
 彼女は、店員の説明を真剣な様子で聞いているようだった。時折、笑顔を交えて、普
段自分たちには聞かせないような快活な声で、遣り取りをしている。 
 ティトレイは、何となくムッとした。
「確かに……随分と愛想良いな」
「あーやって見ると、ヒルダも普通の綺麗なお姉さんだネ」
「……認めるのは癪だけどな」
「わっ、ティトレイ、もしかして妬いてる?」
「誰にだよ」
「店員さんに」
「アホ」
 ぽかりと一つマオの頭を打って、ティトレイは店を出た。マオも、コンパスの差を埋めよ
うとしてか、駆け足でついてくる。


 彼らが外で待っていると、やがてヒルダが手に大きな紙袋を抱えて、店から出てきた。
これは予想外の荷物の量だ。
「なんだよ、そのデカイ袋は」
「店員さんが、おまけしてくれたの」
 さらりと言って、ヒルダは当然のように袋をティトレイに押し付けた。彼もまた当然のよう
にそれを受け取ってしまう。傍らのマオがにやにやしているのが目に入ったが、それも
いつものことで、ティトレイは無視した。
「おまけって言ってもさ、買うはずだったのは、ライフボトル二本とかだろ。量が多すぎじ
ゃねえ?」
「だから、ライフボトル以外は全部おまけよ」
「え!?」
 ヒルダの言葉に、ティトレイは紙袋をがさがさと漁った。だが、肝心のライフボトルは中
々見えない。その上に、グミやらなにやらが山と詰め込まれているからだ。
「あの野郎!!」
 ティトレイは袋を抱えたまま肩をいからせ、店の扉に向って歩き出したが、ヒルダに腕
を掴まれた。
「ちょっと、なにするつもりよ」
「貰ったもんを返すんだよ!」
「どうして?」
「どうしてって……おまえ、本当に鈍いな!!」
 苛々とティトレイは言ったが、ヒルダはピンと来ていないようで、怪訝そうに眉をひそめ
るだけだ。それが、ますます彼の苛々を募らせる。
「商売やってるやつが、下心なしで、そんな大量のおまけをくれるわけないだろうが!」
「どういう意味よ」
「だから〜!さっきの店員は、おまえに気があるから、こうやって色々くれたんだって言
ってるんだよ」
「……」
「どうせ、またこの店に来るように、何か仕向けられたりしたんだろ」
 ヒルダは憮然とした面持ちで、呟いた。
「アンケート用紙をもらったわ」
「ほら見ろ!次来たときは、ここぞとばかりに口説くつもりだぜ」
 鬼の首を取ったように言うティトレイを、ヒルダはキッと睨んだ。
「……分かったわよ!返せばいいんでしょ!?ほら、貸しなさいよ!!」
 紙袋を取り返そうと、ヒルダが手を伸ばしてくるのを、ティトレイは拒んだ。
「いいよ、おれが返してくるし」
「なんでよ、私が貰ったんだから、私が行くのが筋ってものだわ」
「いいんだよ。おまえが行ったら、また面倒なことになるに決まってるからな」 
「面倒なことって何よ」
 ティトレイにとっての面倒なこと。それは、手管が失敗し、進退窮まった店員が本気で
ヒルダを口説きに掛かることである。だが、そんなことを彼女に白状するわけにもいかない。
「うるさいな。別にいいだろ、なんでも。とにかく、おれが行ってくる」
 彼は彼女を納得させることを諦めて、再び店へ向って歩き出した。そのとき、

 ぐき!!

「う、わ!」   
 バターンと、ティトレイは突然、前向きに倒れた。抱えた袋からアイテム類が四方八方
へと放り出される。
 彼は店の前にある低い段差につまづいたのだった。
「な、なにやってんのよ!」
「うわー、見事にコケたネ、ティトレイ」
「ぐ……」
 格闘技に長けているはずの己が、こんな小さな段差ごときに屈したのが情けなく、ヒル
ダともマオとも顔を合わせたくなかったが、このままここで寝ているわけにもいかないので、
ティトレイはよろよろと起き上がった。
「畜生〜っ!!なんで、こんなところに段差があるんだよ!?」
 よろよろしていても、口は減らない。それがあなたのいいところ。(古くてすみません)
「それより、ティトレイ。どうするのよ、あれ……」
「え?」
 ヒルダが顎をしゃくる先には、袋から投げ出されたグミやボトルが地面に散乱していた。
しかも、前日雨が降ったせいで、泥に塗れてしまっている。
「げっ!!おまえらもボーっとしてないで、早く拾えよ!!」
 慌ててアイテムに駆け寄るティトレイ。ヒルダとマオも渋々といった様子で、地面にしゃ
がみこんだ。
「あーあ、グミも泥だらけだヨ」
「誰かさんのせいで……せっかくもらったのに……」
 ティトレイの背後で、ちくちくと二人が嫌味を言う。
「な、なんだよ〜!陰険な奴らだな!!」
 耐え切れず、後ろを振り向き喚くと、ヒルダは肩を小さく竦めた。
「はいはい、元はと言えば私が悪かったのよ」
「そうだよ、おまえがさ……」
 愚痴に雪崩れ込みそうになるティトレイだったが、ヒルダはさっさとマオの方に顔を向
けてしまっていた。
「ボトル類は、拭けば使えるわよね」
「うん、使える!でも、グミは無理そうだネ」
「ふん、いいよーだ。おれは悪くないもんね」
「ティトレイ、拗ねちゃダメだヨ〜」
「マオ、おまえにはそういうこと言われたくないんだよな!」 
「じゃあ、ヒルダには言われてもいいんだ?」
「そ、そういうことじゃねーよ」
 バカ!とティトレイは顔を赤くしつつ、ヒルダの方を窺ったが、彼女は黙々と泥まみれ
のグミを拾っていて、こちらの会話を気にしている様子はなかった。それはそれで、ティ
トレイには面白く無い。


 しばらくして、落し物を全て拾い終わった三人は、宿屋へ続く道を歩いていた。汚れ
てしまった商品をわざわざ返すのも、おかしいような気がしたので、結局『おまけ』は、貰
って帰ってきた。
 自分より、だいぶ背の高い二人が並ぶ、その後ろを今のマオは歩いている。別にハ
ブられているわけではなく、この位置の方が彼にとって面白いものが見られる可能性が
高いからである。
 面白いもの――ティトレイはヒルダに飽きることもなく、話しかけている。毎回、彼女か
ら、やり込められる羽目になると分かっているのに、よくやるよと、マオは思う。が、それ
も愛のなせる業であろう。
「おまえさ、もうあの道具屋へは行くなよ」
「分かってるわよ、しつこいわね」
「ひどいな、心配してやってるんだろ!?」
「それは、どうもありがとうね〜」
「む……」
 良い子良い子と言った感じで、ヒルダは彼の頭を撫でる仕草をした。途端に大人しく
なるティトレイが、まるで犬のようだ。
「マオ、ちゃんとついてきてる?」
 と、ヒルダが不意に振り返った。マオがちっとも会話に入ってこないので、不審に思っ
たらしい。
「ちゃーんと、いるから安心して」
「もっと前に来なさいよ」
 ヒルダは、マオの肩に手を回して前に軽く押した。結果、マオはティトレイとヒルダの間
に立つ格好になった。こうなると、やってみたくなるのは、アレだ。
 マオはティトレイとヒルダの手をそれぞれ握って、ぶんぶんと前後に振った。
「わーい、パパとママみたい!!」
 勿論、マオは本気で嬉しがっているわけではない。二人の反応を見たいがためである。
「なっ、な……バカなこと言ってるなよ!」
 ティトレイは予想通り、真っ赤になっている。だが、一方のヒルダは顔色一つ変えてい
ない。彼女はマオを見下ろしたあと、ティトレイに目をやった。
「あんたと私の子供にしては、大きすぎるわよね」
「!!」

(天然キターーーー!!)

 マオは心の中で喝采を叫んだ。さあ盛り上がって参りました!
「お、おれとおまえの……」
「ちょっと、なに赤くなってるのよ」
「赤くなんか、なってねーよ」
 ティトレイはマオの握る手を振り払った。
「ったく、変なことするなよな!!」
「本当は嬉しかったくせにー」
「なんだと!」
「いつかは、おれもヒルダと……とか思っちゃったりしたんじゃないの!?」
「こら、マオ〜っ!!!」
「わっ、逃げろ!」
 駆け出すマオを、ティトレイは大人気なく追い掛け回す。ヒルダは、そんな二人を眺め
て、ため息を一つついた。  
「もう、二人ともやめなさいよ。他の人に迷惑じゃない」
 ヒルダがそう言うと、二人は素直に駆け回るのをやめて、彼女の傍へ戻ってきた。彼ら
は軽く息を切らせている。
「あー、面白かった」
「面白がるなよ、マオ」
「面白かったわ」
「ヒルダも!!」
「じゃあ、面白がらないわ」
「よし」
 ヒルダの返事にティトレイは一つ頷いたが、すぐに口を開いた。
「そういやさー……」
「なに?」
「おまえって、えらい外面いいよなあ?」
「は?」
 眉をひそめるヒルダ。だが、ティトレイは気が付いていないようだ。

(うわ、ティトレイ!そんなこと、本人に面と向って言う!?)
 
 ヒルダの顔に、なんとなく不穏な感情が漂うのを感じ取ったマオは、呆然とティトレイを
眺めた。ある意味、度胸のある男ではある。鈍いだけかもしれないが。        
「外面がいいって、どういう意味よ」
「だって、おれたちに対しては、いつもブスーッとしてるのにさ、さっきの道具屋に対して
は、ニッコニコしてたじゃん」
「……私、別にそんなにニコニコなんてしてないわ」
「してたよ」
「してないわ」
 束の間、ティトレイとヒルダの間に妙な空気が流れた。先ほどまでの、おふざけムード
が嘘のような、その空気。焦りに駆られたマオは「わっ!」と、大きな声を出した。
 二人は弾かれたように、彼の方を見遣った。
「見てよ、あの雲!オムライスみたいだヨ!」
「……」
 珍しく何も言わないティトレイの横で、ヒルダは小さく息をついて、腕組みをした。
「本当ね、オムライスみたい」
「……なんだよ。いきなり怒るなよな」
 彼女を横目で見て、ティトレイは言った。ヒルダが彼を見ると、すぐに空に視線を移す。
「あれは、オムライスというより、ハヤシライスだろ」
「あんたが変なこと言うから怒ってるんでしょ」
「本当のことだろ」
「……あんたたちに対して、愛想笑いするような私がいいの?」
 ねぇ、マオ?と、ヒルダはマオに視線を寄越した。マオは曖昧に頷く。想像してみるが、
確かにそんなヒルダは嫌だった。
「ボクはイヤかも」 
「そりゃ、そんなのは、おれだって嫌だけどさ」
 慌てて弁解するようにティトレイが言う。
「嫌だけど、なによ」
「いや、その」
「言いたいことがあるなら、言いなさいよ」
「う……」
 何か躊躇している様子のティトレイだったが、ヒルダがなおも促すと、彼はぼそぼそと
呟いた。
「なんつうか〜、おれの知らないヤツに対して、おまえが愛想良くしてるのが嫌っていうか」
「つまりさ〜、ティトレイ。それって、嫉妬してるってこと?」
 目を輝かせるマオの指摘に、ティトレイは「ギャー!!」と大げさに慌てふためき、髪を
掻き毟った。
「そういうこと言うんじゃねぇよ!!」
 否定しないところを見ると、嫉妬しているという自覚はあるらしい。そんな男を前にして、
ヒルダは口を真一文字に結び、ただただ凝然としている。困惑しているのだろうか。
 マオは、今の状況がこの上なく面白いもののように思え、更にティトレイに追い討ちを
掛けることにした。
「ヒルダの笑顔は、おれだけのモノだ!みたいな〜?」
「やめろよお!!」
 ティトレイは、今にも頭から蒸気でも上げそうだ。
「他の人間に笑いかけるんじゃねぇ!!とか〜?」
「マオ」
 と、そこで嗜めたのは、ティトレイではない。ヒルダである。
「ふざけるのも、いい加減にしなさい。往来の人に迷惑と言ったでしょ」
「……ゴメンナサイ」
 腰に片手を当て、見下ろしてくるヒルダから妙な迫力を感じたマオは、素直に謝った。
母親というのは、こういうものなのだろうかと、ふと思う。
 しかし、そんな感傷に浸る間も無く、ヒルダの声が飛んでくる。
「反省したなら、宿屋までダッシュよ!ほら、ティトレイも!!」
「は、ハ〜イ!!」
「おれもぉ!?」
 背中を押されたマオは、よく分からないまま、遠くに見えている宿屋に向って走った。
「なんで、おれまで」
 ぶつぶつ呟きながら、結局ティトレイも同じように走っているのが、笑えた。 


 それから数時間後の夕方。宿の夕餉まで間があるので、ティトレイは部屋の窓辺に腰
掛けて、外をぼんやり眺めていた。彼だって、物思いに耽ることくらいある。
「……あ」
 ふと下を見ると、落ち葉でいっぱいの宿の庭をヒルダが歩いていた。時折立ち止まっ
て、何やら足踏みしている。
 ティトレイは窓を開けると、「ヒルダ」と声を掛けた。気が付いた彼女はこちらを見上げる。
「なにやってんだ」
「栗を拾ってるのよ」
「へえ、これ栗の木なんだ」
 ちょうどティトレイの目の前に、木の枝がある。ちょっと手を伸ばせば届く距離だ。
「おれもそっちに行こうっかな〜」
 彼が窓から身を乗り出し、枝に足を掛けると、下で悲鳴が上がった。
「ち、ちょっと、なにやってんのよ!」
「なにって、木登りだよ、木登り」
「やだ、危ない!」
「危なくねーだろ、別に」
 軽い身のこなしで、ティトレイは木に飛び移った。まばらについている葉の隙間から、
周りの家並みが一望できて、すこぶるいい気分だ。
「子供の頃を思い出すぜ……」
「早く下りてきなさいよ!」
「案外、心配性なのね、ヒルダって」
 一段下の枝へ下りると、彼は彼女に向って声を張った。
「ちょっとさ、そこからどいて」
「なんで?」
「栗、落としてやるよ」
「???」
 ヒルダは不審そうにしながらも、木の傍から離れた。それを確認すると、ティトレイは立
っている枝に足で揺さぶりをかけた。毬栗がぼたぼたと地面に落ちる。
「わー、やめてやめて!枝が折れちゃうわよ!!」
 下では、らしくない悲鳴を上げて、ヒルダが口を押さえている。
「折れないって」
「もういいから〜〜!」  
 ヒルダのあまりの慌てぶりに、何だか可哀そうになって、ティトレイは素直に枝から飛び
降りた。そのときも、彼女は「ぎゃー!」と顔を覆っていたが。
「じゃーん、無事着地」
「やめてよ、もう。心配させないで」
 両手を挙げてポーズを決めるティトレイを、ヒルダはなじった。
「あんたって、まるで野生児だわ」
「自然児と言ってくれよな」 
「同じようなもんよ」
 はあ、と胸を押さえると、ヒルダは再び栗拾いを始めた。
「おれも手伝ってやろうか」
「ん……ありがとう」
 それから、二人はしばし黙々と、落ちた栗を踏み続けた。時に比例して、籠の栗はど
んどん増えていった。
「もう、こんなもんでいいんじゃねえ?」
 と、ティトレイが伸びをしたとき、しゃがんでいたヒルダが「痛っ」と声を上げた。見ると、
指を握って俯いている。
「どうしたよ」
「栗の毬が刺さったみたい」
 ティトレイは、立ち上がる彼女の傍に寄った。
「暗くて、どこに刺さってるのか、よくわからないわ……」
「見せてみ」
 促すと、ヒルダは素直に手を差し出した。ティトレイは手を取ると、その指先を爪でゆっく
り擦った。
「いた……」
「ここか?」
「うん、そこ」
 彼は、その痛いという場所に目を凝らした。
「……見えた!」   
 細心の注意を払いつつ、細い毬を抜いた。意外と長さがある。
「こんな長いのが刺さってた」
 ティトレイが持つ毬を通して、二人の視線がぶつかった。しかし、どちらからともなく、
すぐに逸らす。
「ありがとう」
「あ、あのさ……」
「なに?」
「いや、なんでもない」
 色々と言いたいことはあるのだが、いざ話そうとすると、それは雲散霧消してしまい、
捉えることができなくなる。
「……」 
「ねえ、ティトレイ」 
 少し気落ちして、首の辺りに手をやっていると、名前を呼ばれた。ヒルダの方を向くと、
彼女の瞳がひどく憂鬱な色を帯びていたので、彼は思わず息を呑んだ。
 
 ――どうして、そんな顔をするんだろう。できるんだろう。

 どこか諦めているような、そんな投げ遣りな影が彼女の横顔を過ぎるたび、ティトレイ
は、妙な焦燥感を覚えた。
 誰かが引き止めてやらなきゃ、こいつは何をするか分からない。そして、それは多分
おれの役目だ。
 初対面のときから、何故かそんな思いに囚われている。
 ティトレイのそんな考えも知らず、ヒルダはため息を吐くように言葉を紡いだ。
「あんた……私のことなんか好きになっても、いいことないわよ」

(き、気付かれてたのか〜!?)

 ティトレイは一瞬動揺したが、それよりも反論したい気持ちの方が勝った。
「おれが誰を好きになろうと勝手だろ」
 その返事が想定外だったのが、ヒルダは怯んだように彼から少し距離を取った。
「勝手じゃないわ、そんなの……」
 困るのよ、と俯くヒルダの腕を、ティトレイは咄嗟に掴んだ。
「どうして困るんだよ。おれのことが嫌いなのか」
 なんて格好悪い詰め寄り方だと思いつつ、冷静な思考は最早できなかった。知らぬ
間に手に力を込めていたようで、ヒルダが小さく身動ぎした。しかし、ティトレイは手を緩
めはしたが、離すことはしなかった。
「答えろよ」
「……嫌いなわけないわ。私もティトレイのこと好きよ」
「なぬ!?」
 予想外の返事に、一瞬天に昇りかけるティトレイだったが、続くヒルダの言葉に間も無
く打ちのめされることになる。
「でも、あんたのためにならないから」
「なにが」
「ハーフの私と付き合うことが」
 真っ直ぐにこちらを見上げるヒルダの顔が、ふとぼやける。怒りに目が眩んだ。
「ふざけるな!」
 何か考えを巡らす前に、ティトレイは声を荒げていた。ヒルダの紫の瞳が慄くように揺
れたが、それでも彼は言葉を止めることができなかった。
「おまえ、おれを馬鹿にしてんのか!」
「そんな……」
「馬鹿にしてんだよ、おまえは!おれを、ハーフを差別する奴らと一緒だと思ってるから、
そういうこと言うんだろうが!!」
「やめてよっ!!」
 これまで聞いたことのない、はっきりとした拒絶の言葉とともに、ティトレイは掴んだ手を
振り払われた。
「私の何が、あんたにわかるって言うの!知った風なことばかり言わないで!!」
 こちらを見据えるヒルダの顔は真っ白になっている。その中で眦だけが激情を示すよう
に赤い。
 ティトレイは慄いた。

(お、怒らせてしまった……!!)

 何か言わなければ、何か弁解の言葉をと、気持ちは焦るが、一方で、自分は何も間
違ったことは言っていないという、己を弁護する声もあって、ティトレイは「ああどうしようど
うしよおおお」と、パニックに陥った。さっきまでは結構カッコ良かったのに……。
 そんな彼に追い討ちを掛けるように、ヒルダは冷淡な言葉を浴びせる。
「あんたって、いつもそうよね。理想論ばっかりぶって」
「な……なんだよ、理想を追ったら悪いのか!」
 ようやくティトレイは口を開くことができた。
「人間、理想を捨てたら、おしまいだろうよ!!」
「理想を実現する方法も知らないで追ってるだけなら、ただ滑稽なだけだわ」
 ヒルダの言うことは全く正しくて、ティトレイは「へへーごもっともです」と平伏しそうにな
ったが、すんでのところで堪えた。

(くっ……なんて口の減らない女だ!どうして、こんなヤツにおれは惚れちまったんだ)

 それが恋の不思議というものである。
 いい歳をして捻くれていて、何事にも斜に構え、冷めていて、他人に心を許さず……と、
ティトレイとは何もかもが逆のベクトルを向いている彼女だが、そんなところが妙に彼
を引き付ける。
 それにつけても、この場をどう収めたものかと煩悶するティトレイに、ヒルダはくるりと背
を向けた。
「もう、私に構わないで」
「はいそうですか、っておれが承知すると思うか?」
「……私なんかと付き合ったら、あんたの苦労は目に見えてる。それが辛いのよ」
「じゃあ、おれの辛さはどうなる!」
「……」
「おまえは自分が楽になるために、おれを切る。そしたら、今度はおれが不幸になる番
じゃねーか!」
 そんなの不幸の数珠繋ぎだぜ、と、ティトレイは拳を握った。ヒルダは下を向いて黙っ
ている。心も体も、波打つ黒髪も本当に美しいのに、ずっと幸せを得られなかった背中
だ。己に散々理不尽な仕打ちをしてきた世の中に対して、彼女は未だ、かしずこうとし
ている。
 ティトレイは、その細い肩を掴んで、無理やり自分の方へ振り向かせた。
「ヒルダ、おまえは遠慮深すぎるんだよ」
「……え」
「もっと図々しく生きろよ。自分の幸せのためなら、おれだってなんだって、ばんばん利
用してやればいいんだ」
「ティトレイが苦労する横で、私が幸せでいられるわけないわ」
「ははは!おまえ、面白いこと言うね!!」
 なおもしおらしいことを言うヒルダを、ティトレイは笑い飛ばした。
「おれが苦労を苦労と感じるような、繊細な神経を持ってると思うか?思わねーだろ?」
 自分で言ってて、何だか悲しくなってきたが、あながち間違いとも言えない。 
 ティトレイは大仰な仕草で両手を広げた。
「だから安心して、おれの胸に飛び込んでこい!」
 ひょっとすると、代わりにカードが飛んでくるかもと思ったが、案に相違して、ヒルダは
紫の瞳を真ん丸にして、ティトレイのことを見上げている。そんな顔をすると、幼い影が
ありありと浮かび上がる。
「あんた、強がってない?」
「別に強がってないぜ」
「本当に?あとで、やっぱり嫌だとか言わない?」
「言うわけないだろ」
「信じるわよ、私……」
「信じろよ」
 なんでもないことのようにティトレイが言うと、ヒルダは俯き、指で目を擦った。見ると、
眦で涙が控えめな光を返している。
「じゃあ……信じる。ティトレイのこと、信じるわ」
「……うん」
 あれ?これって、もしかして恋が成就したのかな?と、ティトレイはぼんやりと思った。
「なんだか、泣けてきた」
 ヒルダの目から、涙が幾粒も零れ落ちた。
「あ、なんかおかしいわ、止まらない……」
 泣きながらも、笑おうとするヒルダがあんまり綺麗で、ティトレイまで胸が熱くなってきた。
「バカ、泣くなよ!……お、おれも泣けてくるじゃないか……!」
「やだ、あんたまで泣かないでよ」
「わかった、我慢する」
 ぐっ、と口を真一文字に引き結ぶと、ヒルダが「面白い顔してる」と、指差した。
「泣くのを堪えると、こういう顔になんだよ」
 ティトレイは、渋面を作ろうとしたが、それは無理だった。顔が勝手に笑顔の形になっ
てしまう。そうなると、ますますヒルダは面白がって笑うし、彼も笑うしかなくなって、二人
揃って子供みたいに声を上げて笑った。
 ふと空に目をやると、いつになく美しい夕映えが自分たちを照らしている。ティトレイは
悲しくもないのにまた涙が込み上げてきて、小さく息を吐いた。

 ――ああ、今のおれって幸せすぎる。




 




 なんでこんなに長くなったのだ……。
 


BACK