「あら……見て、剣菱様と菊正宗様よ」
 窓際にいた女生徒がそう言うと、教室の女子がパーッと集まってきた。
「きゃあ、本当だわ」
「素敵ねえ、あのお二人」
「まるで、ベルサイユのばらのよう……オスカル悠理様と、アンドレ清四郎様なの」
「いいわ、それ。すっごくいいわ」
 黄色い歓声を上げる彼女たちの視線の先では、二人の生徒が銀杏の下のベンチに並
んで座っていた。この学園の生徒会長と運動部部長である。


 清四郎は、物憂げに宙に手をやった。ひらりと金色の葉が手の平に舞い落ちる。
「……もう、秋なんですね」
 呟くと、隣の悠理がこれまた深刻そうな表情で空を見上げた。
「ああ、秋だ」
「この時期、僕はお前のことが心配で心配で」
「あたしのことは、ほっとけって言っただろ!?」
 悠理はバッと立ち上がった。ザーッという風が吹き、銀杏が二人の足元をくるくると踊った。
「悠理」
「清四郎、心配しなくても大丈夫だよ。あたしは、あたしは……」
 そこまで言うと、悠理はグッと右手を握り、清四郎の方を振り向いた。どこか儚げな笑みを
浮かべていた。
「じゃあな、もう行くよ」
「待て、悠理」
 その笑顔に妙な悲壮感を覚えて手を伸ばした清四郎だったが、彼女の背中はもう届か
ないところまで行ってしまっていた。
「悠理……どうなっても知りませんよ、僕は……」
 誰に言うでもなく、清四郎はぽつりと呟いた。


 翌日、登校すると、いつも校門の前で異彩を放っている剣菱家のリムジンが見当たらな
かった。一緒にいた野梨子も首を傾げている。
「変ですわねえ。いつもこの時間には来ているはずですのに」
「ふむ」
 清四郎は顎に手をやった。
「ああ、嫌な予感がしますな」
「なんですの、嫌な予感って」
「いえ……」
 まだ自分の考えに確証が持てず、清四郎は言葉を濁した。


 昼休み、生徒会室へ行くと、やはり悠理の姿はなかった。大抵、同じクラスの魅録と一緒
に来ているのだが、今は魅録一人がテーブルについていた。
「悠理は?」
「ああ、休みだよ。風邪だって言ってたけどな」
「風邪ですか……」
 違うな、それは。と清四郎は思った。馬鹿は風邪をひかない……ものである。

(これは、いよいよ予感が当たりそうだ……)

 頭が痛くなってきた。


 学校が終わったその夜。清四郎の携帯電話から、エクソシストのテーマが流れてきた。
悠理の着信音だ。
「はい」
『ぜーし、ろぉ〜〜』
「……」
 地獄の底から響いてくるような声に、一瞬切ってしまおうかと思ったが、何とか思い止まった。
「悠理か?どーした、こんな時間に」
『はら…はら……』
「はら?……クイズダービーに出てたのは」
『はらたいら……って、ちがうだろッ!!』
 一転して、鋭い乗りツッコミを披露した悠理。
「なんだ、元気じゃないですか」
『う、うぅ……はら、いてーよォ』
「はらいてえ?腹が痛いのか」
『た、たすけてぐれぇ』
「どの辺が痛いんだ?」
『だから、はらだってば……う!』
「う?」
 と、ガタガタという音がして、突然、悠理の声が聞こえなくなった。

 …………。

 しばらくすると、また呻くような悠理の声がした。
『ごめ……』
「どうしたんですか、いきなり」
『はいてた……』

(やっぱり、ただの食い過ぎじゃねーか)

 清四郎は呆れた。嫌な予感は当たった……。
「胃腸薬を飲んで、ひたすら耐えるしかありませんね」
『やだ〜、薬まずいもん』
「子供か、君は」
『……せーしろ〜、来てよ〜…ぐるじいんだよ〜』
 電話の向こうから聞こえてくる悠理の声に、ほだされそうになる。清四郎の声が少し掠れた。
「来いって言っても」
『迎えをよこ、すから……ぜーじろぉ……』
「……分かりました。迎えはいりませんよ、うちの車で行きますからね」

(結局、悠理には甘くなるなァ)

 苦笑しつつ、清四郎が言うと、
『うん……まってるから……おえぇ……』
 と、えづく声が聞こえた。

(……やっぱり行くのやめるか)
 
 清四郎は少し後悔した。


 父親の車を飛ばして、剣菱邸を訪ねると、執事の五代が出迎えてくれた。
「これはこれは、菊正宗殿」
「悠理の具合はどうですか」
「いや、それがもう大変……よろしくありませんな」
「はあ。食べ過ぎですね?」
 清四郎の言葉に、五代は頷いた。
「はい。昨日、九江が来まして」
「なるほど」
 人のよさそうな丸顔料理人の顔が浮かんだ。彼のもてなしは戦場である。
「では、ちょっと様子を見せてもらいますね」
「お願いいたします」


 タンタンタンと階段を上がっていくと、百合子夫人が現れた。今日もばっちり乙女チックな
白いネグリジェが決まっている。
「まあ、清四郎ちゃん」
「どうも、お邪魔します」
「悠理のために来てくれたの。ごめんなさいね、いつもいつも」
「いえ、大事な友達ですから」
 清四郎は爽やかな笑顔とともにきっぱり言い切った。彼が優等生と呼ばれる所以である。
「あの子ったら、腹八分目って言葉を知らないから、困ってしまうわよね」
「ははは……」
 確かに。知らない言葉は腹八分目どころではないが。


 悠理の部屋の前まで来ると、清四郎は控えめにドアをノックした。だが、返事はない。

(せっかく来てやったつうのに、返事くらいせんか)

 不精な悠理に腹を立てつつ、そっとドアを薄めに開けた。
「……悠理。いるのか……?」
 悠理と言えども、腐っても女子。いきなり夜中の寝室に入っていくのは躊躇われたので、
戸口のところで中を伺ってみたが、間接照明だけの光では、薄暗くてよく見えなかった。
「……入るぞ」
 小さく宣言して、一歩足を踏み出したとき、ぐにゃりと何かを踏んだ。

「うおぉ!!」

 慌てて、足をどかして下を見ると、悠理が死体のように横たわっていた。
「悠理!!」
 ひざまずいて、彼女の上体を抱き上げると、閉じた瞼がピクピク動いた。
「しっかりしろ!」
 ビシバシと頬を打つと、「むにゃむにゃ」と悠理は無邪気な声を出した。
「寝とんのかい!!」
 清四郎はがっくりと肩を落とした。コイツってやつあ、コイツってやつは……。

(心配するだけ無駄だった)

「起きたまえ、悠理くん」
 今度は少し優しく頬を叩いた。が、悠理は幸せそうな寝顔を見せるばかり。
「ん〜……もー食えないよ、うへへ……」
「……」
「ぎょーざ……ひゃっこくらいなら、いけるよ。えへ」
「それは食い過ぎだ……」
 ため息を一つつくと、清四郎は悠理を負ぶった。ぐんにゃりとした体を背負って、天蓋つ
きのベッドへ歩いていく。
「ああ、月明かりが」
 窓から淡い光が部屋を照らしていた。冷たく幻想的なその光景に、清四郎は背中の悠
理も忘れて直立不動の姿勢になって見蕩れた。

「んぎゃ!!」

「あ、しまった」
 と、後ろを振り返ると、蛙のように床にビターンと張り付いている悠理がいた。なんと無様
な姿よ。
「いってー……」
 したたか打ったらしい額を押さえて悠理はヨロヨロと起き上がった。

(いかん。また一つアホになったかもしれん)

 清四郎は内心舌打ちした。が、それを顔に出す彼ではない。ニコニコと笑みを浮かべな
がら「大丈夫ですか?」 と手を差し出した。しかし、悠理はビクビクと慄いている。
「な、なんでお前いるんだよ……」
「なんでだとう」
 あんまりな言葉に、清四郎の笑顔が強張った。

(お前が呼んだんだろーが、おめーがよ!!)

 キーッと捲くし立てそうになるのを堪えて、清四郎は諭すように言った。 
「腹が痛いと言って、君が電話を掛けてきたんでしょーが」
「あー……」
 悠理は呆けたような顔をしたあと、ようやく思い出したようだった。
「そうだったね……わりーわりー」 
「はーあ。で、腹痛は良くなったんですかね」
「うん」
 ケロリンとした悠理に、清四郎は思わず顔を覆った。ああ、結構心配したのに。報われな
い己の心。
「どーしたのさ、清四郎」
 悠理が覗き込んでくるので、そっと手を外して清四郎は彼女の顔を伺った。

 ――どうしたの。だいじょーぶ?元気ないね。しんぱいだよお。

 そんな声が聞こえてきそうな、無邪気そのものといった悠理の瞳。
「……なんでもない」
 急に照れが襲ってきて、清四郎は悠理から顔を背けた。顔が熱くなっていくのが分かっ
た。この部屋が暗いことに感謝する。
「さてと」
 すっくと立ち上がると、清四郎はビシッとベッドを指さした。
「いくら痛みが無くなったといっても、今夜くらいは安静にしてなさい」
「えーッ。今から遊びに行こうと思ったのにィ」
「いけない子だ」
 ぐずる悠理をずるずると引き摺って、無理やりベッドへ押し込む。
「嫌だー、寝たくない」
「わがまま言うんじゃない」
 花柄模様の布団を顔まで引っ張り上げてやると、ようやく大人しくなった。
「……ち。お前、あたしの親父かよ」
「親父って」
 サイドテーブルに頬杖をついて、清四郎は悠理を見た。
「そうさせてるのは、誰ですか」
「ふん。あたしですよーだ」
「……」
 ぷうっと頬を膨らませるのが愛しく思えて、ふわふわの猫ッ毛に手をやった。悠理は今に
もゴロゴロと喉を鳴らしそうに、目を細める。
 柔らかな髪を弄りながら、清四郎はぼそりと言った。
「だから秋は、気をつけろと言ったのに」
「仕方ないじゃん?美味いものがいっぱいあるんだからさぁ」
「ものには限度ってものがあるでしょう」
「あー、明日は何食おうかな」

(聞いてないし)

 やれやれと清四郎は密かに肩を竦めた。今度、腹痛で呼び出されたときは、絶対に来ん
からな、と決意を固めていると、「くかー」という寝息が聞こえた。
「ね、寝てやがる」
 散々人を騒がせておきながらの、よだれ垂らした暢気な悠理の寝顔に、清四郎の意地
悪魂が頭をもたげてきた。
「悠理……」
 低い声で囁くと、清四郎は彼女のほっぺたを抓った。
「いふぇ!」
 起きた。
「あにすんふぁよ〜」
 涙目になっているのを確認すると、清四郎は手を離して、ぽつぽつと話し始めた。
「……悠理、あなたの家が建つ前、ここになにがあったか知っていますか?」
「へ?知らない……」
「ここにはね、昔小さな山があったのですよ」
「山?そんなの初耳だよ」
 首を傾げる悠理に、清四郎は声をわざとらしく潜めた。
「それはそうでしょう。なぜなら、その山は周辺の村人からは「魔の山」と呼ばれて忌み嫌
われていたんですからね」
「ま、魔の山……」
 不吉な響きを感じ取ったらしく、悠理は首の布団を鼻先まで引っ張り上げた。
「な、なんだよそれ」
「名前の通り、魔物が棲む山ですよ」
「魔物って、幽霊!?」
 怯えた顔で自分を窺う悠理に、清四郎の背筋をぞくぞくとしたものが走っていった。快感?
「そう……。かつて、この辺りでは姥捨てが行われていたんです」
「姥捨てって、年取ったばーちゃんを山に置いてきちゃうヤツ?」
「正解です。よく知ってましたね」
「それくらい知ってるわい。とーちゃんから聞いたもんね」
「……」
 清四郎は暫し黙った。
「せ、清四郎……?どうしたの……」
 布団から起き上がった悠理に肩を揺すられて、清四郎は「はっ!」と大げさに目を見開いた。
その尋常でない様子に、悠理はガタガタと震えた。
「な、な、なんだよおおお」
「今、何かが鏡に……」
 清四郎はゆらりと手を上げ、窓辺のドレッサーを指さした。しかし、そこには二人の姿しか
見えなかった。
「なんも映ってないってぇ……」
「いや、ちょっと待て!」
 思わせぶりに悠理を制して、清四郎は椅子から立ち上がり、ドレッサーへと近づいていった。
「や、やめ……せ……」
 か細い声を悠理が発したとき、不意に清四郎がガクッと床にくずおれた。
「ひっ!」
 口を手で覆って、悠理は固まってしまった。あの、清四郎が!まさか…し、死んだ!?

「せいしろおーーーッ!!!」

 ベッドから飛び出て、彼の元へ駆け寄ろうとしたとき、どこからともなく、細く繊細な音色が
聞こえてきた。この、人の不安を煽る旋律は……。
 裸足の爪先から、恐怖が染み込んでくる。

「ぎゃあああああ!!!」

 悠理は叫ぶと、倒れている清四郎に縋り付いた。
「起きろ!!起きろってんだよ!清四郎!!!」
「……」
「バカヤロウ、てめえ、起きろって!!!」
「……」
「せーしろー!おきてよおおお〜……」
 うえーんと、とうとう泣き出すと、うつぶせになっていた清四郎の体がくるりと反転した。
「へ?」
 悠理はぽかんと口を開けた。涙に滲んだ視界で、清四郎がニッコニコと至極上機嫌そう
に笑っている。彼は上着のポケットからシルバーの携帯電話を取り出して、悠理の鼻先に
つきつけた。そこから流れてくるのは、あのエクソシストのテーマ曲。
 悠理は真っ赤になった。
「だ、だましたなあああ」
「おや?僕は騙してなどいませんけど」
 澄ました顔で清四郎は起き上がった。
「ただ、鏡にゴミがついてたんで取ろうと思って近づいたら、コケただけです。携帯もその
拍子で作動したんでしょう」
「嘘つけ!」
 悠理はワナワナと両の拳を握った。咄嗟に防御しようと清四郎が右手を上げると、予想に
反して、彼女はすごい勢いで抱きついてきた。「うわ」と、後ろに手をつく。
「ゆ、悠理?」
「ふざけんな、ばか、あほ〜〜!死んだかと思ったじゃないか〜、うえええぇ!!」
「……お前、泣いてるのか」
 女心に鈍い清四郎は、ぎくしゃくと悠理の背中を擦った。
「そんなに怖かったんですか」
「ちが〜う〜」
 抗議するように悠理は清四郎の胸をバンバン叩いた。その力強さに清四郎は少しむせた。
「ごほ……。じゃあ、なんでそんなにギャーギャー泣くんです」
「わがんない〜〜」
 そう喚いて、また悠理は泣くのである。清四郎は段々、夜泣きする赤ん坊をあやしている
気分になってきた。
「よしよし」
 と、右手で背中を抱き、左手で頭を撫でたとき、不意に部屋のドアが開けられた。
 パーッと廊下の眩しい光が差し込んで、清四郎は目を細めた。ぼんやりと視線の先に誰
かが佇んでいる。細長いのと、ダルマみたいなシルエット……。

「んまあ、まあ!あなたたちったら!!」
「あんれまあ、おめたち、なにをやってるだがや」

 …………。清四郎は絶句した。自分たちの体勢に気づいたからである。慌てて、両腕を
突っ張ると、ゴロゴロゴロと悠理は床に転がった。
「いってえ……!いきなり何すんだよ!!」
 そんな非難の声は無視して、清四郎は立ち上がった。百合子と万作に向き合うと、キリッ
と真面目な顔を作って、弁明を述べた。
「違うんです!僕たちは何も疚しいことはしてません!!」
 こんな誤解、冗談じゃない!清四郎は必死だった。が、
「あらあ、いいのよ。そんな言い訳しなくたって」
 百合子は「ホホホホ」と笑っている。
「清四郎ちゃんなら、大歓迎よ。どんどんヤッてくれていいのよ」

(ヤる、って)

 引き攣る清四郎。万作まで、大喜びである。
「これは、めでてえがや!早速お披露目パーティーをやるだよ!」
「いいわねえ。帝国ホテルを借り切って、やりましょう」
「おお、そうするだ」
 くらっ……。清四郎は眩暈がしてきて、額に手を当てた。
「だから違うんですって!僕と悠理はそんな関係では……」
「でも、さっき抱き合ってたじゃないの」
「あ、あれは……あれは、友情の抱擁です!!」
 恥ずかしいいい〜。妙な台詞が出てきてしまい、清四郎は顔を赤くした。そんな彼を見て、
百合子と万作は顔を見合わせている。
「友情?そうかしら?ね、あなた」
「うんにゃ。さっきの二人には愛があっただよ!」

 ――愛。

 清四郎は自分の中で、何かがガラガラと崩れていくような気がした。
「あい……」
 馬鹿な。まさか。有り得ない。嘘だ。そんな言葉が頭の中でぐるぐると回った。だが、否定
しきれないのは、何故だ。

(僕は、悠理に愛を感じていないと言い切ることができるのか……?)

 突然、炎のごとく――。清四郎が混乱していると、足元に転がっていた悠理がようやく起
き上がった。

「ってさあ、何だよ、パーティーって!?」
「遅いわ!!」

 その瞬間、愛のことなど完全に吹っ飛んだ清四郎の裏拳が悠理の額にヒットした。



 ――やっぱり、愛なのか?

 悠理に反応する己の手の早さに、帰りの車中、清四郎は悶々と考え込んでしまったのだ
った。




 
 
結構、ドライな二人が好きです。


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